・・・ところでこの太郎坊も今宵を限りにこの世に無いものになってしまった。その娘はもう二十年も昔から、存命えていることやら死んでしもうたことやらも知れぬものになってしまう、わずかに残っていたこの太郎坊も土に帰ってしまう。花やかで美しかった、暖かで燃・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ 今宵は大宮に仮寝の夢を結ばんとおもえるに、路程はなお近からず、天は雨降らんとし、足は疲れたれば、すすむるを幸に金沢橋の袂より車に乗る。流れの上へ上へとのぼるなれど、路あしからねば車も行きなずまず。とかくするうち夏の夕の空かわりやすく、・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・その乗券の価を問うにほとんど嚢中有るところと相同じければ、今宵この地に宿りて汽車賃を食い込み、明日また歩み明後日また歩み、いつまでも順送りに汽車へ乗れぬ身とならんよりは、苦しくとも夜を罩めて郡山まで歩み、明日の朝一番にて東京に到らん方極めて・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・が紅葉の恩沢に浴するそれ幾ばく、着たる糸織りの襟を内々直したる初心さ小春俊雄は語呂が悪い蜆川の御厄介にはならぬことだと同伴の男が頓着なく混ぜ返すほどなお逡巡みしたるがたれか知らん異日の治兵衛はこの俊雄今宵が色酒の浸初め鳳雛麟児は母の胎内を出・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・り哀しき絶望の詩をつくり、おのれ苦しく、命のほどさえ危き夜には、薄き化粧、ズボンにプレス、頬には一筋、微笑の皺、夕立ちはれて柳の糸しずかに垂れたる下の、折目正しき軽装のひと、これが、この世の不幸の者、今宵死ぬる命か、しかも、かれ、友を訪れて・・・ 太宰治 「喝采」
・・・それはまた日本の人に限ったことでなく、人間性一般の大問題であろうと思いますが、今宵死ぬかも知れぬという事になったら、物慾も、色慾も綺麗に忘れてしまうのではないかしらとも考えられるのに、どうしてなかなかそのようなものでもないらしく、人間は命の・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・そのときに足踏みならしてたぬきの歌う歌の文句が、「こいさ(今宵お月夜で、お山踏み(たぶん山見分も来まいぞ」というので、そのあとに、なんとかなんとかで「ドンドコショ」というはやしがつくのである。それを伯母が節おもしろく「コーイーサー、、オーツ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・二階の一室狭けれども今宵はゆるやかに寝るべしと思えば船中の窮屈さ蒸暑さにくらべて中々に心安かり。浴後の茶漬も快く、窓によれば驟雨沛然としてトタン屋根を伝う点滴の音すゞしく、電燈の光地上にうつりて電車の往きかう音も騒がしからず。こうなれば宿帳・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・余ヤ性狷介固陋世ニ処スルノ道ヲ知ラザルコト匹婦ヨリモ甚シ。今宵適カツフヱーノ女給仕人ノ中絃妓ノ後身アルヲ聞キ慨然トシテ悟ル所アリ。乃鉛筆ヲ嘗メテ備忘ノ記ヲ作リ以テ自ラ平生ノ非ヲ戒ムト云。」 僕が文壇の諸友と平生会談の場所と定めて置いた或・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・われという可愛き者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟りを据えての恐と苦しみである。今宵の悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消え失せて、求むれども遂に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司どるものの我にはあらで、先に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫