・・・蒟蒻、蒲鉾、八ツ頭、おでん屋の鍋の中、混雑と込合って、食物店は、お馴染のぶっ切飴、今川焼、江戸前取り立ての魚焼、と名告を上げると、目の下八寸の鯛焼と銘を打つ。真似はせずとも可い事を、鱗焼は気味が悪い。 引続いては兵隊饅頭、鶏卵入の滋養麺・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・明治四、五年頃、ピヤノやヴァイオリンが初めて横浜へ入荷した時、新らし物好きの椿岳は早速買込んで神田今川橋の或る貸席で西洋音楽機械展覧会を開いた。今聞くと極めて珍妙な名称であるが、その頃は頗るハイカラに響いたので、当日はいわゆる文明開化の新ら・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ おもちゃ屋の隣に今川焼があり、今川焼の隣は手品の種明し、行灯の中がぐるぐる廻るのは走馬灯で、虫売の屋台の赤い行灯にも鈴虫、松虫、くつわ虫の絵が描かれ、虫売りの隣の蜜垂らし屋では蜜を掛けた祇園だんごを売っており、蜜垂らし屋の隣に何屋があ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・それに学校や踊はやめてもせめてお針ぐらいは習わせなければと父親を口説き、お仙ちゃんなど半年も前から毎日お針に行ってるから随分手が上ったと言うと、さすがに父親も狼狽して今川橋の師匠の許へ通わせることにした。 安子は二十日振りに外の空気を吸・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・ 織田信長が今川を亡ぼし、佐木、浅井、朝倉をやりつけて、三好、松永の輩を料理し、上洛して、将軍を扶け、禁闕に参った際は、天下皆鬼神の如くにこれを畏敬した。特に癇癖荒気の大将というので、月卿雲客も怖れかつ諂諛して、あたかも古の木曾義仲の都・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・太郎の子内膳正は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤嘉明に属して功があった。与左衛門の子が八左衛門で、大阪籠城のとき、後藤基次の下で働いたことがある。細川家に召し・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・永正十一年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国清見が関に住居いたし候。永禄三年五月二十日今川殿陣亡遊ばされ候時、景通も御供いたし候。年齢四十一歳に候。法名は千山宗及居士と申候。 父才八は永禄元年出生候て、三歳にして怙を失い、母の・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・彼は素姓のあまりはっきりしない男であるが、応仁の乱のまだ収まらないころであったか、あるいは乱後であったかに、上方から一介の浪人として、今川氏のところへ流れて来ていた。ちょうどそのころに今川氏に内訌が起こり、外からの干渉をも受けそうになってい・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫