・・・政は立った次手に花を剪って仏壇へ捧げて下さい。菊はまだ咲かないか、そんなら紫苑でも切ってくれよ」 本人達は何の気なしであるのに、人がかれこれ云うのでかえって無邪気でいられない様にしてしまう。僕は母の小言も一日しか覚えていない。二三日たっ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 新所帯の仏壇とてもないので、仏の位牌は座敷の床の間へ飾って、白布をかけた小机の上に、蝋燭立てや香炉や花立てが供えられてある。お光はその前に坐って、影も薄そうなションボリした姿で、線香の煙の細々と立ち上るのをじっと眺めているところへ、若・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ ところが、大宝寺小学校の高等科をやがて卒業するころ、仏壇の抽出の底にはいっていた生みの母親の写真を見つけました。そして、ああ、この人やこの人やというおきみ婆さんの声を聴きながら、じっとその写真を見ているうちに、私は家を出て奉公する決心・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・仏の顔も二度三度の放浪小説のスタイルは、仏壇の片隅にしまってもいいくらい蘇苔が生えている筈だのに、世相が浮浪者を増やしたおかげで、時を得たりと老女の厚化粧は醜い。 そう思うと、もう私の筆は進まなかったが、才能の乏しさは世相を生かす新しい・・・ 織田作之助 「世相」
・・・そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、箪笥などに並んで燈明の灯った仏壇が壁ぎわに立っているのであった。石田にはそれらの部屋を区切っている壁というものがはかなく悲しく見えた。もしそこに住んでいる人の誰かがこの崖上へ来てそれらの壁を眺めたら・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・い心を一にして大君の御為御励みのほどひとえに祈り上げ候以上は母が今わの際の遺言と心得候て必ず必ず女々しき挙動あるべからず候なお細々のことは嫂かき添え申すべく候右認め候て後母様の仰せにて仏壇に燈ささげ候えば私が手に扶けられて母・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ お三輪は思い出したように、仮の仏壇のところへ線香をあげに行った。お三輪が両親の古い位牌すら焼いてしまって、仏壇らしい仏壇もない。何もかもまだ仮の住居の光景だ。部屋の内には、ある懇意なところから震災見舞にと贈られた屏風などを立て廻して、・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・中畑さんが仏壇の扉を一ぱいに押しひらいた。私は仏壇に向って坐って、お辞儀をした。それから、嫂に挨拶した。上品な娘さんがお茶を持って来たので、私は兄の長女かと思って笑いながらお辞儀をした。それは女中さんであった。 背後にスッスッと足音が聞・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・私は、その家の裏庭に面した六畳間を私の仕事部屋兼寝室として借り、それからもう一間、仏壇のある六畳間を妻子の寝室という事にしてもらって、普通の間代を定め、食費その他の事に就いても妻の里のほうで損をしないように充分に気をつけ、また、私に来客のあ・・・ 太宰治 「薄明」
・・・母上はもううちへ帰りついて奥の仏壇の前で何かしていられるかと思うとわけもなく悲しくなる。ねえさんのうちがにぎやかなのに比べてわが家のさびしさが身にしむ。いろんな事を考えて夜着の領をかんでいると、涙が目じりからこめかみを伝うて枕にしみ入る。座・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
出典:青空文庫