・・・仁右衛門は他愛もなくそれを奪い取った。噛みつこうとするのを押しのけた。そして仲裁者が一杯飲もうと勧めるのも聴かずに妻を促して自分の小屋に帰って行った。佐藤の妻は素跣のまま仁右衛門の背に罵詈を浴せながら怒精のようについて来た。そして小屋の前に・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・一ぱし大きさも大きいで、艪が上って、向うへ重くなりそうだに、はや他愛もねえ軽いのよ。 おらあ、わい、というて、艪を放した。 そん時だ、われの、顔は真蒼だ、そういう汝の面は黄色いぜ、と苫の間で、てんでんがいったあ。――あやかし火が通っ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・おんぶするならしてくれ、で、些と他愛がないほど、のびのびとした心地。 気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫と日が当ると、日中は早じりじりと来そうな頃が、近山曇りに薄りと雲が懸って、真綿を日光に干すような、ふっくりと軽い暖かさ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 小児が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯えた声を出して、と云ってな、三反ばかり山路の方へ宙を飛んで遁出したと思え。 はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えなが・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・……そのくせ、他愛のないもので、陽気がよくて、お腹がくちいと、うとうととなって居睡をする。……さあさあ一きり露台へ出ようか、で、塀の上から、揃ってもの干へ出たとお思いなさい。日のほかほかと一面に当る中に、声は噪ぎ、影は踊る。 すてきに物・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ と金切声を出して、ぐたりと左の肩へ寄凭る、……体の重量が、他愛ない、暖簾の相撲で、ふわりと外れて、ぐたりと膝の崩れる時、ぶるぶると震えて、堅くなったも道理こそ、半纏の上から触っても知れた。 げっそり懐手をしてちょいとも出さない、す・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なので、あきれていると、女の歌声もまじり出した。私はますますあきれた。そこへ夕飯がはこばれて来た。 電燈をつけて、給仕なしの夕飯をぽつねんと食べていると、ふと昨夜の蜘蛛が眼にはいった・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 他愛なく笑って、「荒城の月」を聴いていたが、急に、「お父さん、今日の新聞は……?」「お前の膝の上だ」「あッ、そうか」 頭に手を当てて、膝の上を見て、ラジオ欄の「独唱と管弦楽、杉山節子、伴奏大阪放管」という所を見ると、・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・老大家の風俗小説らしく昔の夢を追うてみたところで、現代の時代感覚とのズレは如何ともし難く、ただそれだけの風俗小説ではもう今日の作品として他愛がなさ過ぎる……。そう思えば筆も進まなかったが、といって「ただそれだけ」の小説にしないためにはどんな・・・ 織田作之助 「世相」
・・・という――ただそれだけの何の変哲もない他愛もない夢であるが、この夢から私は次のように短かい物語を作ってみた。 三人の帰還軍人が瀬戸内海沿岸のある小さな町のはずれに一軒の家を借りて共同生活をしている。その家にもう一人小隊長と呼ばれている家・・・ 織田作之助 「電報」
出典:青空文庫