・・・それから生物と死物との区別だッてろくに付けることの出来るものはまず無いのサ。生物の最下等の奴になるとなんだかロクに分らないのサ、ダッテ石と人間とは一所にならないには極ッてるが、最下等生物の形状はあんまり無生活物とちがいはしないのだよ。所を僕・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・崖の中腹には、小使の音吉が弟を連れて来て、道をつくるやら石塊を片附けるやらしていた。音吉は根が百姓で、小使をするかたわら小作を作るほどの男だ。その弟も屈強な若い百姓だ。 兄弟の働いている側で先生方は町の人達にも逢った。人々の話は鉱泉の性・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・お前さんの好きな作者の小説もお前さんが読んではなんにもならないのだが、わたしが読めばあの人に可哀がって貰う種を目付ける種本になるのだわ。幾らお前さんのお父っさんがエスキルといったって、エスキルという名を付ける坊主はお前さんには出来ないわ。な・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・君の作品の中に十九世紀の完成を見附ける事は出来ても、二十世紀の真実が、すこしも具現せられて居りません。二十世紀の真実とは、言葉をかえて言えば、今日のロマンス、或いは近代芸術という事になるのですが、それは君の作品だけでなく、世界の誰の作品の中・・・ 太宰治 「風の便り」
私は今日まで、自作に就いて語った事が一度も無い。いやなのである。読者が、読んでわからなかったら、それまでの話だ。創作集に序文を附ける事さえ、いやである。 自作を説明するという事は、既に作者の敗北であると思っている。・・・ 太宰治 「自作を語る」
・・・を片付けると、必然の成行きとして「重力と加速度の問題」が起って来た。この急所の痛みは、他の急所の痛みが消えたために一層鋭く感ぜられて来た。しかしこの方の手術は一層面倒なものであった。第一に手術に使った在来の道具はもう役に立たなかった。吾等の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 火の消えない吸殻を掌に入れて転がしながら、それで次の一服を吸付けるという芸当も真似をした。この方はそんなに六かしくはなかったが時々はずいぶん痛い思いをしたようである。やはりそれが出来ないと一人前の男になれないような気がしたものらしい。・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・とわたしは唖々子をその場に待たせて、まず冠っていた鳥打帽を懐中にかくし、いかにも狼狽した風で、煙草屋の店先へ駈付けるが否や、「今晩は。急に御願いがあるんですが。」 帽子をかくしたのは友達がわたしの家へ馬をつれて来たので、わたしは家人・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・その時分知っていたこの家の女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、窓外の物干台へ照付ける日の光の眩さに辟易して、とにかく夕風の立つまでとそのまま引止められてしまったのだ。物干には音羽屋格子や水玉や麻の葉つなぎなど、昔・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・「それじゃ君が云い付けるさ。御菜のプログラムぐらい訳ないじゃないか」「それが容易く出来るくらいなら苦にゃならないさ。僕だって御菜上の智識はすこぶる乏しいやね。明日の御みおつけの実は何に致しましょうとくると、最初から即答は出来ない男な・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫