・・・ 私は淫売婦の代りに殉教者を見た。 彼女は、被搾取階級の一切の運命を象徴しているように見えた。 私は眼に涙が一杯溜った。私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓へ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓の萎びた手を力一杯・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・このごろ、子供たちがよくカニとりに行き、何十匹もとって来てオカズ代りになることが多い。しかし、これはほとんど技術が入らず、釣りのうちに入るかどうかわからない。 そこへ行くと、イイダコの方はちょっと技術を要する。イイダコはあまり深くない砂・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・太股ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上臂突きにされて、ぐりぐりでも極められりゃア、世話アねえ。復讐がこわいから、覚えてるがいい」「だッて、あんまり憎らしいんだもの」と、吉里は平田を見て、「平田さん、お前さんよく今・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その下には襦袢の代りに、よごれたトリコオのジャケツを着込んでいる。控鈕をはずしてから、一本腕は今一本の腕を露した。この男は自分の目的を遂げるために必要な時だけ、一本腕になっているのである。さて露した腕を、それまでぶらりと垂れていた片袖に通し・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・記者は前節婦人七去の条に、婬乱なれば去ると記し、婦人が不品行を犯せば其罪直に放逐と宣告しながら、今こゝには打て替り、男子が同一様の罪を犯すときは、婦人は之を怒りもせず怨みもせず、気色言葉を雅にして、却て其犯罪者に見限られぬように注意せよと言・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・あの広野を女神達が歩いていて、手足の疲れる代りには、尊い草を摘み取って来るのだが、それが何だか我身に近付いて来るように思われる。あの女神達は素足で野の花の香を踏んで行く朝風に目を覚し、野の蜜蜂と明るい熱い空気とに身の周囲を取り巻かれているの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・の語をやめて代りに「火桶」の形容詞など置くべく、結句は「火桶すわりをる」のごとき句法を用うるか、または「○○すわりをる」「すわり○○をる」のごとく結びて「哉」を除くべし。かつふれて巌の角に怒りたるおとなひすごき山の滝つせ こ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・その代り少し砂がはいっていたそうですが、それはどうも仕方なかったことでしょう。 さてそれから森もすっかりみんなの友だちでした。そして毎年、冬のはじめにはきっと粟餅を貰いました。 しかしその粟餅も、時節がら、ずいぶん小さくなったが、こ・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・アメリカの漫画によくあるように男が女からかけられたエプロンをかけて、女の代りに子供のオムツも洗ってやる、と誇ることだろうか。 一時のこと、特別な場合として勿論そういうことも起るのは生活の自然だけれども、男女の協力ということは、決して、今・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・その代りひどく気分がようなった。茶漬でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母あさまにも申し上げてくれ」 武士はいざというときには飽食はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思った・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫