これは狐か狸だろう、矢張、俳優だが、数年以前のこと、今の沢村宗十郎氏の門弟で某という男が、或夏の晩他所からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく馬道の通りを急いでやって来て、さて聖天下の今戸橋のところま・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・惻隠の情もじかに胸に落ちこむのだ。以前はちらと見て、通り過ぎていた。 ある日、そんな風にやっとの努力で渡って行った轍の音をききながら、ほっとして欄干をはなれようとすると、一人の男が寄ってきた。貧乏たらしく薄汚い。哀れな声で、針中野まで行・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・ 「蠢くもの」以前、またその後の生活だって、けっしてこの未知の青年に対して恥じないような生活を、自分にはしてきているとは、言えないのだ。 たまらないような気持から、自分としてはめったにないことなんだが、寒い風の外に出て、三丁目附近のレス・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ ずっと以前彼はこんな夢を見たことがあった。 ――足が地脹れをしている。その上に、噛んだ歯がたのようなものが二列びついている。脹れはだんだんひどくなって行った。それにつれてその痕はだんだん深く、まわりが大きくなって来た。 あるも・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・けれども、会えばいつも以前のままの学友気質で、無遠慮な口をきき合うのです。この日も鷹見は、帰路にぜひ寄れと勧めますから、上田とともに三人連れ立って行って、夫人のお手料理としては少し上等すぎる馳走になって、酒も飲んで「あの時分」が始まりました・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・いかなるイデアリストの詩人、思想家も、彼が童貞を失った後にそれ以前のような至醇なる恋愛賛美が書けるはずはない。自分の例を引けば、「異性の内に自己を見出さんとする心」を書いたとき私はまだ童貞であった。性交を賛美しつつも、童貞であったのだ。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・彼は、どこかで以前、そういう経験をしたように思った。どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たし・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・けれども以前のように浮き立たない。「どうもやはり違った猪口だと酒も甘くない、まあ止めて飯にしようか。」とやはり大層沈んでいる。細君は余り未練すぎるとややたしなめるような調子で、「もういい加減にお諦らめなさい。」ときっばり言っ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・状今方貸小袖を温習かけた奥の小座敷へ俊雄を引き入れまだ笑ったばかりの耳元へ旦那のお来臨と二十銭銀貨に忠義を売るお何どんの注進ちぇッと舌打ちしながら明日と詞約えて裏口から逃しやッたる跡の気のもめ方もしや以前の歌川へ火が附きはすまいかと心配あり・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・許し物と云って、其の中に口伝物が数々ございます。以前は名人が多かったものでございます。觀世善九郎という人が鼓を打ちますと、台所の銅壺の蓋がかたりと持上り、或は屋根の瓦がばら/\/\と落ちたという、それが為瓦胴という銘が下りたという事を申しま・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
出典:青空文庫