・・・そのような心の状態に在るとき、人は、大空を仰ぐような、一点けがれ無き高い希望を有しているものである。そうして、その希望は、人をも己をも欺かざる作品を書こうという具体的なものでは無くして、ただ漠然と、天下に名を挙げようという野望なのである。そ・・・ 太宰治 「困惑の弁」
峰の茶屋から第一の鳥居をくぐってしばらくこんもりした落葉樹林のトンネルを登って行くと、やがて急に樹木がなくなって、天地が明るくなる。そうして右をふり仰ぐと突兀たる小浅間の熔岩塊が今にも頭上にくずれ落ちそうな絶壁をなしてそび・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・これについて読者の示教を仰ぐことができれば幸いである。 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・その昔、芝居茶屋の混雑、お浚いの座敷の緋毛氈、祭礼の万燈花笠に酔ったその眼は永久に光を失ったばかりに、かえって浅間しい電車や電線や薄ッぺらな西洋づくりを打仰ぐ不幸を知らない。よしまた、知ったにしても、こういう江戸ッ児はわれら近代の人の如く熱・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・精細なる会計報告が済むと、今度は翌日の御菜について綿密な指揮を仰ぐのだから弱る」「見計らって調理えろと云えば好いじゃないか」「ところが当人見計らうだけに、御菜に関して明瞭なる観念がないのだから仕方がない」「それじゃ君が云い付ける・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ゲーテがその子を失った時“Over the dead”というて仕事を続けたというが、ゲーテにしてこの語をなした心の中には、固より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない、学問も・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・平田はすぐその眼を外らし、思い出したように猪口を取ッて仰ぐがごとく口へつけた、酒がありしや否やは知らぬが。 吉里の眼もまず平田に注いだが、すぐ西宮を見て懐愛しそうににッこり笑ッて、「兄さん」と、裲襠を引き摺ッたまま走り寄り、身を投げかけ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・故に表面より見れば子女の結婚は父母の意に成り、本人は唯成を仰ぐのみの如くなれども、其実は然らず。父母は唯発案者にして決議者に非ず、之を本人に告げて可否を問い、仮初にも不同心とあらば決して強うるを得ず。直に前議を廃して第二者を探索するの例なれ・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・上を仰ぐ――真青な騒々しい動揺。横を窺う――条を乱し死者狂いのあばれよう。一体これは全くただの雨風であろうか? 自分というとりこめられた一つの生きものに向って、何か企み、喚めき、ざわめき立った竹類が、この竹藪を出ぬ間に、出ぬ間に! と犇めき・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・ ついに市長は大いに困ってその筋に上申して指揮を仰ぐのほかなしと告げて席を立った。 この事件のうわさはたちまち広まった。老人が役所を出ずるや、人々はその周囲を取り囲んでおもしろ半分、嘲弄半分、まじめ半分で事の成り行きを尋ねた。しかし・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫