・・・ 料理店の、あの亭主は、心優いもので、起居にいたわりつ、慰めつ、で、これも注意はしたらしいが、深更のしかも夏の夜の戸鎖浅ければ、伊達巻の跣足で忍んで出る隙は多かった。 生命の惜からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな通船は、胸の・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・……湯気に山茶花の悄れたかと思う、濡れたように、しっとりと身についた藍鼠の縞小紋に、朱鷺色と白のいち松のくっきりした伊達巻で乳の下の縊れるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様が軽く靡いて、片膝をやや浮かした、褄を友染がほんのり溢れる。露の垂りそ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 背後について、長襦袢するすると、伊達巻ばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔と、比目魚の・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・其水溜の中にノンキらしい顔をした見物人が山のように集っていた。伊達巻の寝巻姿にハデなお召の羽織を引掛けた寝白粉の処班らな若い女がベチャクチャ喋べくっていた。煤だらけな顔をした耄碌頭巾の好い若い衆が気が抜けたように茫然立っていた。刺子姿の消火・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・よごれの無い印半纏に、藤色の伊達巻をきちんと締め、手拭いを姉さん被りにして、紺の手甲に紺の脚絆、真新しい草鞋、刺子の肌着、どうにも、余りに完璧であった。芝居に出て来るような、頗る概念的な百姓風俗である。贋物に違いない。極めて悪質の押売りであ・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・女は、幽かな水色の、タオルの寝巻を着て、藤の花模様の伊達巻をしめる。客人は、それを語ってから、こんどは、私の女の問いただした。問われるがままに、私も語った。「ちりめんは御免だ。不潔でもあるし、それに、だらしがなくていけない。僕たちは、ど・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・この周囲と一致して日本の女の最も刺戟的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻の細帯にあらい浴衣の立膝して湯上りの薄化粧する夏の夕を除いて他にはあるまい。 町中の堀割に沿うて夏の夕を歩む時、自分は黙阿弥翁の書いた『島鵆月白浪』に雁金に結びし蚊・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ 横坐りをしている若い女給が伊達巻をしめ直しながら溜息をついた。「刑事なんぞここじゃ横柄な顔してるけど、お店へああいう人が来ると、まったく泣けるわ。そりゃねちねちしてしつっこいのよ。つんつんすりゃ仇されるしさ、うっかりサービスすりゃ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 細っこい胴に巻きつく伊達巻のサヤサヤと云う気軽な音をききながら、 木の深い森へ行きとうござんすねえ。 すぐそこの――ほら、 先に行きましたっけねえ、 あすこへ行きましょうよ、 どんなにいいでしょうねえ。・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
出典:青空文庫