・・・のみならず僕は彼がうたった万葉集の歌以来、多少感傷主義に伝染していた。「ニニイだね。」「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」 彼はこう答えるが早いか、途方もなく大きい嚔めをした。 五 ニイスにいる彼の・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・たとえば、閣下の使用せられる刑事の中にさえ、閣下の夢にも御存知にならない伝染病を持っているものが、大勢居ります。殊にそれが、接吻によって、迅速に伝染すると云う事実は、私以外にほとんど一人も知っているものはございません。この例は、優に閣下の傲・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ さあ、お奥では大騒動、可恐しい大熱だから伝染ても悪し、本人も心許ないと云うので、親許へ下げたのだ。医者はね、お前、手を放してしまったけれども、これは日ならず復ったよ。 我に反るようになってから、その娘の言うのには、現の中ながらどう・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 咳というものは伝染するものか、それとも私をたしなめるための咳ばらいだったのかなと考えながら、雨戸を諦めて寐ることにした。がらんとした部屋の真中にぽつりと敷かれた秋の夜の旅の蒲団というものは、随分わびしいものである。私はうつろな気持で寐・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 気の弱い寺田はもともと注射が嫌いで、というより、注射の針の中には悪魔の毒気が吹込まれていると信じている頑冥な婆さん以上に注射を怖れ、伝染病の予防注射の時など、針の先を見ただけで真蒼になって卒倒したこともあり、高等教育を受けた男に似合わ・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・彼等は鮮人に接近すると、汚い伝染病にでも感染するかのように、一間ばかり離れて、珍しそうに、水飴のように大地にへばりつこうとする老人を眺めた。「伍長殿。」剣鞘で老人の尻を叩いている男に、さきの一人が思い切った調子で云った。それは栗島だった・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・見ず知らずの女達から旦那を通して伝染させられたような病毒のために、いつか自分の命の根まで噛まれる日の来まいものでもない、とは考えたばかりでも恐ろしいことであった。「蛙が鳴いとる」 と言って、三吉はおげんの側へ寄った。何時の間に屋外へ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・けれども私は伝染病患者として、世田谷区・経堂の内科病院に移された。Hは、絶えず私の傍に附いていた。ベエゼしてもならぬと、お医者に言われました、と笑って私に教えた。その病院の院長は、長兄の友人であった。私は特別に大事にされた。広い病室を二つ借・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・去勢されたような男にでもなれば僕は始めて一切の感覚的快楽をさけて、闘争への財政的扶助に専心できるのだ、と考えて、三日ばかり続けてP市の病院に通い、その伝染病舎の傍の泥溝の水を掬って飲んだものだそうだ。けれどもちょっと下痢をしただけで失敗さ、・・・ 太宰治 「葉」
・・・、たまには、私にうんと甘えてもらいたい様子なのですが、私だって、二十八のおばあちゃんですし、それに、こんなおたふくなので、その上、あの人の自信のない卑下していらっしゃる様子を見ては、こちらにも、それが伝染しちゃって、よけいにぎくしゃくして来・・・ 太宰治 「皮膚と心」
出典:青空文庫