・・・しかし、行っても行っても、その山は同じ大きさで、同じ位置に据っていた。少しも近くはならないように見えた。人家もなかった。番人小屋もなかった。嘴の白い烏もとんでいなかった。 そこを、コンパスとスクリューを失った難破船のように、大隊がふらつ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ここの細君は今はもう暗雲を一掃されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを心配の代りに得て、大風の吹いた後の心持で、主客の間の茶盆の位置をちょっと直しながら、軽く頭を下げて、「イエもう、業の上の工夫に惚げていたと解りますれば何のこ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・南と北とを小高い石垣にふさがれた位置にある今の住居では湿気の多い窪地にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子はことに暗かった。「ここの家には飽きちゃった。」 と言い出すのは三郎だ。「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行っ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・男等の位置と白楊の位置とが変るので、その男等が歩いているという事がやっと知れるのである。七人とも上着の扣鈕をみな掛けて、襟を立てて、両手をずぼんの隠しに入れている。話声もしない。笑声もしない。青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ されば堯典記載の天文が、今日の科學的進歩の結果と相合はず、その十二宮、二十八宿を東西南北の相稱的位置に排列せることが、天文の實際にあはざることも、もとより當然のことなり。この堯典の記事は天文の實地觀測に立脚せるものには非ずして、占星思・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・ あの、あわれな、卑屈な男も、こうして段々考えて行くに連れて、少しずつ人間の位置を持ち直して来た様子であります。悪いと思っていた人が、だんだん善くなって来るのを見る事ほど楽しいことはありません。弁護のしついでに、この男の、身中の虫、「芸・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ たとえば、スクリーンの映像では、その空間的位置がちゃんと決定されているのに、音響のほうは、聞いただけでその音源の位置を決定する事ができない。この事がいろいろ問題になっているが、文楽でこの問題はつとに解決されている。すなわち、たとえば、・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に享くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。 諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千万な社会を知らぬ。この小さな日本を・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 二タうね撒いて、腰を延ばした善ニョムさんは、首をグッと反らして、青い天を仰いでからユックリもとの位置へ首を直した。「おや、また普請したぞい……」 フト目に入った山荘庵の丘の上に、赤い瓦の屋根が見えた。「また俺らの上納米で建・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるはずだと考え、案内知らぬ道だけにかえって興味を覚え、目当もなく歩いて行くことにしたのである。 道路は市中の昭和道路などよりも一層ひろいように思われ、両側には歩道が設けられていたが、ところどころ会社・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫