・・・ 不安――恐怖――その堪えがたい懊悩の苦しみを、この際幾分か紛らかそうには、体躯を運動する外はない。自分は横川天神川の増水如何を見て来ようとわれ知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供たちにも、いざという時の準備を命じた。それも準備の必要・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・予の手足と予の体躯は、訳の解らぬ意志に支配されて、格子戸の内に這入った。 一間の燈りが動く。上り端の障子が赤くなる。同時に其障子が開いて、洋燈を片手にして岡村の顔があらわれた。「やア馬鹿に遅かったな、僕は七時の汽車に来る事と思ってい・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・倭小な体躯を心もち猫背にかがめているのも、二年前と変らぬお前の癖だった。「こいつ奴!」 と、思わず出掛った言葉に代る「よう!」という声をいっしょにあわててチラシをうけとったが、それは見ずに、「どうしてたんだい? 妙なところで会う・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・明け放した受附の室とは別室になった奥から、横井は大きな体躯をのそり/\運んで来て「やあ君か、まああがれ」斯う云って、彼を二階の広い風通しの好い室へ案内した。広間の周囲には材料室とか監督官室とかいう札をかけた幾つかの小間があった。梯子段をのぼ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・シカシ今井の叔父さんはさすがにくたぶれてか、大きな体躯を僕のそばに横たえてぐうぐう眠ってしまった。炉の火がその膩ぎった顔を赤く照らしている。 戸外がだんだんあかるくなって来た。人々はそわそわし初めた、ただ今井の叔父さんは前後不覚の体であ・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・年は六十ばかり、肥満った体躯の上に綿の多い半纒を着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々しい顔の目じりが下がっている。それでどこかに気むずかしいところが見えている。しかし正直なお爺さんだなと客はすぐ思った。 客が足を洗ッてしま・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・小牛のように大きい、そして闘争的な蒙古犬は、物凄くわめき、体躯を地にすりつけるようにして迫ってきた。それは、前から襲いかゝってくるばかりでなく、右や、左や、うしろから人間のすきを伺った。そして、脇の下や、のど笛をねらってとびかゝった。浜田は・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・顔をあげて拝むような目付をしたその男の有様は、と見ると、体躯の割に頭の大きな、下顎の円く長い、何となく人の好さそうな人物。日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其痛々敷い額の上には、たしかに落魄という烙印が押しあててあった。悲しい追憶の・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・狆というやつで、体躯つきの矮小な割に耳の辺から冠さったような長い房々とした毛が薄暗い廊下では際立って白く見えた。丁度そこへ三十五六ばかりになる立派な婦人の患者が看護婦の部屋の方から廊下を通りかかった。この婦人の患者はある大家から来ていて、看・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・先生はエナアゼチックな手を振って、大尉と一緒に松林の多い谷間の方へ長大な体躯を運んで行った。 谷々は緑葉に包まれていた。二人は高い崖の下道に添うて、耕地のある岡の上へ出た。起伏する地の波はその辺で赤土まじりの崖に成って、更に河原続きの谷・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫