・・・が、何故か周章てゝ両手で、自分の口を抑えた。妹はその母をチラッと見ると、横を向いた。――その朝、この年とった母は何んにも云わなかった。たゞ、「寒くないか?」と云ったことゝ、愈々連れて行かれるときに、妹の顔を見て、「あ――あ、お前もか!」と云・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・ある学会で懸賞問題を出して答案を募ったが、その問題は「コップに水を一杯入れておいて更に徐々に砂糖を入れても水が溢れないのは何故か」というのであった。応募答案の中には実に深遠を極めた学説のさまざまが展開されていた。しかし当選した正解者の答案は・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・裏窓からその蚊帳を通して来る萌黄色の光に包まれたこの小さな部屋の光景が、何故か今でも目について忘れられない。 どんな用向きでどんな話をしたか、それがどういう風に運んだのであったか、その方の記憶は完全に消えてしまっている。とにかく簡単な用・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・ 私は何故かそれを見るとすべての事が解ったような気がした。 鉄の鶴が向うの方で立ち止まって長い鉄の頸をねじ向けてじいっと私の顔を見つめていた。 三 高架鉄道から下りてトレプトウの天文台へ行く真直な道路・・・ 寺田寅彦 「夢」
・・・この大提灯を見て、余は何故かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がな・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ これ等の事は、設計の掘鑿通り以外に、決して会社が金を出しはしない、と云う事に起因していた。何故かなら会社で必要なのは、一分一厘違わず、スポッとその中へ発電所が嵌りさえすればいいのだったから。 川下の方の捲上げ道を登れば、そのまま彼・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ れんがとり次いでいる声がとぎれとぎれに聞えた。程なく、彼女は、室の内側に開く扉のかげにはりついたような形をして首だけ彼に向けながら「依岡様からお電話でございます。あの――」 何故か、れんはこの時総入歯の歯を出してにっと笑った。・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・若し、心から愛していたのなら、早苗姫が胸を貫いて死んだ刀の血を拭わせずに鞘に納めることもあり得ようが、忽ち、将軍になろうとしての上洛の途につく決心をするのは何故か? 作者が、私の想像するように、早苗を真心から愛したく思っていたのに、彼の・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・そしてそれは何故か私の額の上に刻まれたもののような印象を与えて今日に及んでいるのである。〔一九三七年十一月〕 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・ところがあの通りこの上もない出世をして、重畳の幸福と人の羨むにも似ず、何故か始終浮立ぬようにおくらし成るのに不審を打ものさえ多く、それのみか、御寵愛を重ねられる殿にさえろくろく笑顔をお作りなさるのを見上た人もないとか、鬱陶しそうにおもてなし・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫