・・・――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。」「はい、そう申します。」「ついでにお銚子を。火がいいから傍へ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり一時に持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註文を・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・それは何の苦もなくいわば余分の収入として得たるものとはいえ、万という金を惜しげもなく散じて、僕らでいうと妻子と十日の間もあい離れているのはひじょうな苦痛である独居のさびしみを、何の苦もないありさまに振舞うている。そういう君の心理が僕のこころ・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・天保の饑饉年にも、普通の平民は余分の米を蓄える事が許されないで箪笥に米を入れて秘したもんだが、淡島屋だけは幕府のお台を作る糊の原料という名目で大びらに米俵を積んで置く事が出来る身分となっていた。が、富は界隈に並ぶ者なく、妻は若くして美くしく・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・おかね婆さんは昔灸婆をしていたこともあり、弟子を掴まえてそんな風に執拗く灸をすすめるのも、月謝のほかに十銭、二十銭余分の金を灸代として取りたい胸算用だから……と、専らの評判をいつか丹造もきき知っていたのである。 その日、路地へ帰ると、丹・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・それから間もなく私は、さきに書いたような、金銭に関するあの人の悪い癖を聞いたので、直ぐあの人に以後絶対に他人には金を貸しませんと誓わせ、なお、毎日二回ずつあの人の財布のなかに入れてやるほかは、余分な金を持たせず、月給日には私が社の会計へ行っ・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓のない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくの・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・自作農として出発させたい考えで、余分なものはいっさいあてがわない方針を執った。 都会の借家ずまいに慣れた目で、この太郎の家を見ると、新規に造った炉ばたからしてめずらしく、表から裏口へ通り抜けられる農家風の土間もめずらしかった。奥もかなり・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・話して見て、おげんは余分にその心持を引出された。 蜂谷は山家の人にしてもめずらしいほど長く延ばした鬚を、自分の懐中に仕舞うようにして、やがておげんの側を離れようとした。ふと、蜂谷は思いついたように、「小山さん、医者稼業というやつはと・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・少年の時分から私は割合に金銭に淡白なほうで、余分なものをたくわえようとするような、そういう考えをきょうまで起こした覚えもない。今度という今度は、それが私に起こって来た。私もやっぱり、金でもたくわえて置いて、余生を安く送ろうとするような年ごろ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・お金も今月はどっさり余分にございます。あなたのお疲れのお顔を見ると、私までなんだか苦しくなります。この頃、私にも少しずつ、芸術家の辛苦というものが、わかりかけてまいりました。と、そんなことをぬかすので、おれも、ははあ、これは何かあるな、と感・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫