・・・橄欖の花のにおいの中に大理石を畳んだ宮殿では、今やミスタア・ダグラス・フェアバンクスと森律子嬢との舞踏が、いよいよ佳境に入ろうとしているらしい。…… が、おれはお君さんの名誉のためにつけ加える。その時お君さんの描いた幻の中には、時々暗い・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 三秒にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀取れる高峰が右手の腕に両手をしかと取り縋・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・「それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境には入って来ましたね」 そして聴き手の青年はまたビールを呼んだ。「いや、佳境には入って来たというのはほんとうなんですよ。僕はだんだん佳境には入って来たんだ。何故って、僕には最初窓がただな・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・「愉快々々、談愈々佳境に入って来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子を煖炉の方へ引寄た。「少し談が突然ですがね、まず僕の不思議の願というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女はなかなかの美人でした」「ヨウ! ヨウ!」と松木・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・談たまたま佳境に入ったとたんに、女房が間抜顔して、もう酒は切れましたと報告するのは、聞くほうにとっては、甚だ興覚めのものであるから、もう一升、酒屋へ行って、とどけさせなさい、と私は、もっともらしい顔して家の者に言いつけた。酒は、三升ある。台・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
・・・ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を組合したり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また指の端を唇に触れたりする。しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・間にして、即ち醜体百戯、芸妓と共に歌舞伎をも見物し小歌浄瑠璃をも聴き、酔余或は花を弄ぶなど淫れに淫れながら、内の婦人は必ず女大学の範囲中に蟄伏して独り静に留守を守るならんと、敢て自から安心してます/\佳境に入るの時間なり。左れば記者が特に婦・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 父母が女子の為めに配偶者を求むるは至極の便利にして、其間に本人の自由を妨ぐることなきに似たれども、今一歩を進むれば社会全体に男女交際法の区域を広くし、之を高尚にし、之を優美にし、所謂和して乱れざるの佳境に進めて自由自在ならしめんこと、我輩・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・すでにこの学に志してようやくこれを勤むる間には、ようやく真理原則の佳境に入り、苦学すなわち精神を楽しましむるの具となりて、いかにしてもこの楽境を脱すべからず。かえりみて我が身の出処たる古学社会を見れば、その愚鈍暗黒なる、ともに語るに足るべき・・・ 福沢諭吉 「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」
出典:青空文庫