・・・しかしその底に潜んでいるのは妙に侘しい心もちだった。僕はいつか外套の下に僕自身の体温を感じながら、前にもこう言う心もちを知っていたことを思い出した。それは僕の少年時代に或餓鬼大将にいじめられ、しかも泣かずに我慢して家へ帰った時の心もちだった・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
一「このくらいな事が……何の……小児のうち歌留多を取りに行ったと思えば――」 越前の府、武生の、侘しい旅宿の、雪に埋れた軒を離れて、二町ばかりも進んだ時、吹雪に行悩みながら、私は――そう思いました。・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ と寂しい侘しい唄の声――雪も、小児が爺婆に化けました。――風も次第に、ごうごうと樹ながら山を揺りました。 店屋さえもう戸が閉る。……旅籠屋も門を閉しました。 家名も何も構わず、いまそこも閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込みま・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・今来た入口に、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、茹でた豌豆を売るのも、下駄屋の前ならびに、子供の履ものの目立って紅いのも、もの侘しい。蒟蒻の桶に、鮒のバケツが並び、鰌の笊に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、侘しい響を伝えて来た。 冬籠りする高瀬は火鉢にかじりつき、お島は炬燵へ行って、そこで凍える子供の手足を暖めさせた。家の外に溶けた雪が復た積り、顕われた土が復た隠れ、日の光も遠く薄く射すように成れば・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・けれども、この蒲団部屋の隣りの六畳間は、その下宿の部屋よりも、もっと安っぽく、侘しいのである。「他に部屋が無いのですか」「ええ。みんな、ふさがって居ります。ここは涼しいですよ」「そうですか」 私は、馬鹿にされていたようである・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・私にも、あんなに慕って泣いて呼びかけて呉れる弟か妹があったならば、こんな侘しい身の上にならなくてよかったのかも知れない、と思われて、ねぎの匂いの沁みる眼に、熱い涙が湧いて出て、手の甲で涙を拭いたら、いっそうねぎの匂いに刺され、あとからあとか・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・と続いて思ったが、今度はそれがなんだか侘しいような惜しいような気がして、「己も今少し若ければ……」と二の矢を継いでたが、「なんだばかばかしい、己は幾歳だ、女房もあれば子供もある」と思い返した。思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 古葉が凋落して、新しい葉がすぐ其後から出るということは何となく侘しいような気がするものである。椿、珊瑚樹、柚子、八ツ手など皆そうだ。檜、樅は古葉の上に、唯新しい色を着けるばかりだ。 竹は筍の出る頃、其葉の色は際立って醜い。竹が美し・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・これは美しいが、夜の欸乃は侘しい。訳もなしに身に沁む。此処に来た当座は耳に馴れぬ風の夜の波音に目が醒めて、遠く切れ/\に消え入る唄の声を侘しがったが馴れれば苦にもならぬ。宿の者も心安くなってみれば商売気離れた親切もあって嬉しい。雨が降って浜・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫