・・・かねがね山谷はお君に同情めいた態度を見せ、度を過ぎていると豹一は苦々しかったが、さすがに今はくれぐれも頼みますと頭を下げた。便所でボロボロ涙をこぼした。そして、泣いて止めるお君を振りきって家を飛びだした。 その夜は千日前の安宿に泊っ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・と思ってはその期待に裏切られたり、今日こそは医者を頼もうかと思ってはむだに辛抱をしたり、いつまでもひどい息切れを冒しては便所へ通ったり、そんな本能的な受身なことばかりやっていた。そしてやっと医者を迎えた頃には、もうげっそり頬もこけてしまって・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。それを見るときにだけ彼の心はほーっと明るむのだった。 固い寝床はそれを離れると午後にはじまる一日が待っていた。傾いた冬の日が窓のそとのまのあたりを幻燈のように写し・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・二切りめが済むと座敷はにわかににぎやかになって、煙草を吸うやら便所に立つやら大騒ぎ。『お梅。』母親がきょろきょろと見回すと、『なに。』お梅は大きな声で返事をした。『どこにいたのさっきから。』『ここで聴いていたのよ、そして頭が・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 曹長は、刑法学者では誰れが権威があるとか、そういう文官試験に関係した話を途中でよして、便所へ行くものゝのように扉の外へ出た。 彼は、老人の息がかゝらないように、出来るだけ腰掛の端の方へ坐り直した。彼は、癇高い語をつゞけている通訳と・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 夜、一段ひくい納屋の向う側にある便所から帰りに、石段をあがりかけると、僕は、ふと嫂が、窓から顔を出して、苦るしげに、食ったものを吐こうとしている声をきいた。嫂はのどもとへ突き上げて来るものを吐き出してしまおうと、しきりにあせっていた。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・と云って、息子を揺り起し、秀夫さんが入口でスパイと何か云っている間に、ガリ板を手早く便所の中に投げ捨てゝしまった。そして「サア/\、何処ッからでも見てけさい!」と云って、特高を案内したそうである。お前には、「サア/\何処からでも見てけさい!・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・が、戦争がはげしくなって、私たちの住んでいるこの郊外の町に、飛行機の製作工場などがあるおかげで、家のすぐ近くにもひんぴんと爆弾が降って来て、とうとう或る夜、裏の竹藪に一弾が落ちて、そのためにお勝手とお便所と三畳間が滅茶々々になり、とても親子・・・ 太宰治 「おさん」
・・・「便所は?」と私は聞いた。 英治さんは変な顔をした。「なあんだ、」北さんは笑って、「ご自分の家へ来て、そんな事を聞くひとがありますか。」 私は立って、廊下へ出た。廊下の突き当りに、お客用のお便所がある事は私も知ってはいたのだ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・かれは病院の背後の便所を思い出してゾッとした。急造の穴の掘りようが浅いので、臭気が鼻と眼とをはげしく撲つ。蠅がワンと飛ぶ。石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方がいい。どれほど・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫