・・・ このお嬢さんに遇ったのはある避暑地の停車場である。あるいはもっと厳密に云えば、あの停車場のプラットフォオムである。当時その避暑地に住んでいた彼は、雨が降っても、風が吹いても、午前は八時発の下り列車に乗り、午後は四時二十分着の上り列車を・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・これは私があの新橋停車場でわざわざ迎えに出た彼と久闊の手を握り合った時、すでに私には気がついていた事でした。いや恐らくは気がついたと云うよりも、その冷静すぎるのが気になったとでもいうべきなのでしょう。実際その時私は彼の顔を見るが早いか、何よ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
一 お蓮が本所の横網に囲われたのは、明治二十八年の初冬だった。 妾宅は御蔵橋の川に臨んだ、極く手狭な平家だった。ただ庭先から川向うを見ると、今は両国停車場になっている御竹倉一帯の藪や林が、時雨勝な・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
一 レエン・コオト 僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がわは大抵松ばかり茂っていた。上り列車に間に合うかどうか・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・これは新停車場へ向って、ずっと滝の末ともいおう、瀬の下で、大仁通いの街道を傍へ入って、田畝の中を、小路へ幾つか畝りつつ上った途中であった。 上等の小春日和で、今日も汗ばむほどだったが、今度は外套を脱いで、杖の尖には引っ掛けなかった。行る・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・ある夜、店から抜け出た彼は、足の向くままに、停車場を指してやってきました。けれども、もとより汽車賃がなかったので、どうすることもできません。見ますと、故郷の方へ立つ夜行列車が出ようとしています。 彼はせめて貨車の中にでも身を隠すことがで・・・ 小川未明 「海へ」
・・・車のあとより車の多くは旅鞄と客とを載せて、一里先なる停車場を指して走りぬ。膳の通い茶の通いに、久しく馴れ睦みたる婢どもは、さすがに後影を見送りてしばし佇立めり。前を遶る渓河の水は、淙々として遠く流れ行く。かなたの森に鳴くは鶇か。 朝夕の・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 地下室に下りていって、外套箱を開けオーバーを出して着ながら、すぐに八時二十分の汽車で郊外の家へ帰ろうと思った。停車場は銀行から二町もなかった。自家も停車場の近所だったから、すぐ彼はうちへ帰れて読みかけの本が読めるのだった。その本は少し・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・いよいよみんなに暇乞いして停車場の方へ行く時が来て見ると、住慣れた家を離れるつもりであの小山の古い屋敷を出て来た時の心持がはっきりとおげんの胸に来た。その時こそ、おげんはほんとうに一切から離れて自分の最後の「隠れ家」を求めに行くような心地も・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・「先日、お母上様のお言いつけにより、お正月用の餅と塩引、一包、キウリ一樽お送り申し上げましたところ、御手紙に依れば、キウリ不着の趣き御手数ながら御地停車場を御調べ申し御返事願上候、以上は奥様へ御申伝え下されたく、以下、二三言、私、明けて・・・ 太宰治 「帰去来」
出典:青空文庫