・・・彼が苦い顔をしたのも、決して偶然ではない。 しかし、内蔵助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持っていた。 彼の無言でいるのを見た伝右衛門は、大方それを彼らしい謙譲な心もちの結果とでも、推測したのであろう。愈彼の人柄に・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・彼はこれらの関係を知り抜くことには格別の興味をもっていたわけではなかったけれども、偶然にも今日は眼のあたりそれを知るようなはめになった自分を見いだしたのだ。まだ見なかった父の一面を見るという好奇心も動かないではなかった。けれどもこれから展開・・・ 有島武郎 「親子」
・・・戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦において、その法律の規定している罪人の・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 浅草寺観世音の仁王門、芝の三門など、あの真中を正面に切って通ると、怪異がある、魔が魅すと、言伝える。偶然だけれども、信也氏の場合は、重ねていうが、ビルジングの中心にぶつかった。 また、それでなければ、行路病者のごとく、こんな壁・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・良質に基くもの多からんも、又必ずや先覚の人あって此美風の養成普及に勉めたに相違あるまい、栽培宜しきを得れば必ず菓園に美菓を得る如く、以上の如き美風に依て養われたる民族が、遂に世界に優越せるも決して偶然でないように思われる、欧洲の今日ある・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・小林城三となって後、金千両を水戸様へ献上して葵の時服を拝領してからの或時、この御紋服を着て馬上で町内へ乗込むと偶然町名主に邂逅した。その頃はマダ葵の御紋の御威光が素晴らしい時だったから、町名主は御紋服を見ると周章てて土下座をして恭やしく敬礼・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・「あなたの御関係なすっておいでになる男の事を、ある偶然の機会で承知しました。その手続きはどうでも好い事だから、申しません。わたくしはその男の妻だと、只今まで思っていた女です。わたくしはあなたの人柄を推察して、こう思います。あなたは決して自分・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ この赤い鳥の飛んできたのは、偶然だったろうといわぬばかりの顔つきをして、この汚らしい子供の姿を見守っていました。 そのとき、だれか、小石を拾って、電信柱の頂に止まっている赤い鳥を目がけて、投げました。赤い鳥は驚いて、雲をかすめて、ふた・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ ところが偶然というものは続きだしたら切りのないもので、そしてまた、それがこの世の中に生きて行くおもしろさであるわけですが、ある日、文子が客といっしょに白浜へ遠出をしてきて、そして泊ったのが何と私の勤めている宿屋だった。その客というのは・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・そうでもない偶然おれが三日も四日も藻掻ていたと知れたら…… 眼が眩う。隣歩きで全然力が脱けた。それにこの恐ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日明後日となったら――ええ思遣られる。今だって些ともこうしていたくはないけ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫