・・・そんなときには、私のほうから、あいつは贋物だと言ってやろうか、とも考えた。少しずつ私は図太くなっていたらしいのである。不安と戦慄のなかのあの刺すようなよろこびに、私はうかされて了ったのであろう。新進作家になってからは、一木一草、私にとって眼・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・ 私の悪徳は、みんな贋物だ。告白しなければ、なるまい。身振りだけである。まことは、小心翼々の、甘い弱い、そうして多少、頭の鈍い、酒でも飲まなければ、ろくろく人の顔も正視できない、謂わば、おどおどした劣った子である。こいつが、アレキサンダ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・、けれども、やはり自分の皮膚だけを、それだけは、こっそり、いとおしみ、それが唯一のプライドだったのだということを、いま知らされ、私の自負していた謙譲だの、つつましさだの、忍従だのも、案外あてにならない贋物で、内実は私も知覚、感触の一喜一憂だ・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・君はこないだ、贋物じゃないかなんて言って、けちを附けてたじゃないか。」「そうでしたかね。」私は赤面した。「お茶を飲みに来たんだろう?」「そうです。」 私たちは部屋の隅にしりぞいて、かしこまった。「それじゃ、はじめよう。」・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ In a word という小題で、世人、シェストフを贋物の一言で言い切り、構光利一を駑馬の二字で片づけ、懐疑説の矛盾をわずか数語でもって指摘し去り、ジッドの小説は二流也と一刀のもとに屠り、日本浪曼派は苦労知らずと蹴って落ちつき、はなは・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・床の間には春蘭の鉢が置かれて、幅物は偽物の文晃の山水だ。春の日が室の中までさし込むので、実に暖かい、気持ちが好い。机の上には二、三の雑誌、硯箱は能代塗りの黄いろい木地の木目が出ているもの、そしてそこに社の原稿紙らしい紙が春風に吹かれている。・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 春信の贋物をかいたという事で評判のよくない人ではあるが、随筆を読んでみると色々面白い事が書いてある。ともかくも「頭の自由な人」ではあったらしい。日本人の理化学思想に乏しい事を罵ったり、オリジナリティのない事またそれを尊重しない事を誹っ・・・ 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ほんとうの神秘を見つけるにはあらゆる贋物を破棄しなくてはならないという気がする。 六 日本の春は太平洋から来る。 ある日二階の縁側に立って南から西の空に浮かぶ雲をながめていた。上層の風は西から東へ流れているら・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・「僕にも近頃流行るまがい物の名前はわからない。贋物には大正とか改良とかいう形容詞をつけて置けばいいんだろう。」と唖々子は常に杯を放なさない。「ああいう人たちのはく下駄は大抵籐表の駒下駄か知ら。後がへって郡部の赤土が附着いていないとい・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・若し捕ってりゃ偽物だよ。偽物でも何でも捕えようと思って慌ててるこったろう。可哀相に、何も知らねえ奴が、棍棒を飲み込みでもしたように、叩き出されかけているこったろう。蛙を呑んだ蛇見たいにな」 彼は、拷問の事に考え及んだ時、頭の中が急に火熱・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
出典:青空文庫