・・・平太郎は知行二百石の側役で、算筆に達した老人であったが、平生の行状から推して見ても、恨を受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐天した事が知れると共に、始めてその敵が明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていた・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・また彼の耳にはいる父の評判は、営業者の側から言われているものなのか、株主の側から言われているものなのか、それもよくはわからなかった。もし株主の側から出た噂ならだが、営業者間の評判だとすると、父は自分の役目に対して無能力者だと裏書きされている・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ フレンチの向側の腰掛には、為事着を着た職工が二三人、寐惚けたような、鼠色の目をした、美しい娘が一人、青年が二人いる。 フレンチはこの時になって、やっと重くるしい疲が全く去ってしまったような心持になった。気の利いたような、そして同時・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ そこで犬は小股に歩いて、百姓の側へ行掛かった。しかしその間に百姓の考が少し変って来た。それは今まで自分の良い人だと思った人が、自分に種々迷惑をかけたり、自分を侮辱したりした事があると思い出したのだ、それで心持が悪くなって訳もなく腹を立・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・その一つは彼等が一時の状態を永久の傾向であると見ることであり、もう一つは局部の側相を全体の本質と考えることである」 自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有することを誇りとする心、そういう性急な心をもしも「近代的」というも・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・と、いうと、腰を上げざまに襖を一枚、直ぐに縁側へ辷って出ると、呼吸を凝して二人ばかり居た、恐いもの見たさの徒、ばたり、ソッと退く気勢。「や。」という番頭の声に連れて、足も裾も巴に入乱るるかのごとく、廊下を彼方へ、隔ってまた跫音、次第に跫・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 最も臆病に、最も内心に恐れておった自分も、側から騒がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風をして、何ほど増して来たところで溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてて騒ぐに及ばないと一喝した。そうしてその一喝した自分の声にさえ、・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・椿年歿して後は高久隆古に就き、隆古が死んでからは専ら倭絵の粉本について自得し、旁ら容斎の教を受けた。隆古には殊に傾倒していたと見えて、隆古の筆意は晩年の作にまで現れていた。いわゆる浅草絵の奔放遒勁なる筆力は椿年よりはむしろ隆古から得たのであ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・その女が手紙を書くのを側で見ていますと、非常な手紙です。筆を横に取って、仮名で、土佐言葉で書く。今あとで坂本さんが出て土佐言葉の標本を諸君に示すかも知れませぬ。ずいぶん面白い言葉であります。仮名で書くのですから、土佐言葉がソックリそのままで・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 中庭の側には活版所がある。それで中庭に籠っている空気は鉛のがする。この辺の家の窓は、五味で茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だというような顔をして、覗いている人があ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
出典:青空文庫