・・・『今戸心中』が明治文壇の傑作として永く記憶せられているのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられているのみならず、また妓楼全体の生活が渾然として一幅の風俗画をなしているからである。篇中の事件は酉の市の前後から説き起されて・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 博文館の『文芸倶楽部』はその年の正月『太陽』と同時に第一号を出したので、わたくしは確にこれをも読んだはずであるが、しかし今日記憶に残っているものは一つもない、帝国文庫の『京伝傑作集』や一九の『膝栗毛』、または円朝の『牡丹燈籠』や『塩原・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・この建築全体の法式はつまり人間の有する敬虔崇拝の感情を出来得べき限りの最高度まで興奮させようと企てたものでしかも立派にその目的に成功した大なる美術的傑作品である。紅雨は生涯忘れない美的感激の極度を経験したと信ずる巴里の有名なる建築物・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・したがって巧妙な趣向は傑作たる上に大なる影響を与うるものと、誰も考えている。ところが写生文家はそんな事を主眼としない。のみならず極端に行くと力めて筋を抜いてまでその態度を明かにしようとする。 かくのごとき態度は全く俳句から脱化して来たも・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・大した傑作とは云えまいこの映画が、その感情や智慧を中途半端に運ばせている芝居にも猶かつこの様にその心と眼とをひきつけるものを含んでいる女の生活とは、現実においてどういうものであるのだろうか。 それを思うたびに、心に一つのおどろきが深まる・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・はないだろうか。 もうこれからはゴーゴリの作品のような型で諷刺する諷刺文学は、プロレタリア文学の領域からは出ないのが当然だ。例えば「死せる魂」は傑作だが、プロレタリア的観点から農民はああ見られただけではすまない。それを書けば、諷刺より極・・・ 宮本百合子 「新たなプロレタリア文学」
・・・をはじめ、ヘッセの傑作も「轍の下」「青春彷徨」などは直接青年の自己確立の過程、人間の目ざめの若々しくゆたかな苦悩を描いている。ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」もそういう文学として世界にあまり類のない作品である。ルナールの「にんじん」・・・ 宮本百合子 「生きつつある自意識」
・・・そのため、私一個人としては、先ずそこへ行きつくまでは私の作が愚作であろうが傑作であろうが少しも変りはしない。やはり同じ失敗の作で、成功というような見事な不自然なことは到底及びもつかない夢だと思う。もし傑作が出来ればまぐれ当りだ。私が何をして・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・ 先生が明治初年の排仏毀釈の時代にいかに多くの傑作が焼かれあるいは二束三文に外国に売り払われたかを述べ立てた時などには、実際我々の若い血は沸き立ち、名状し難い公憤を感じたものである。が、あの煽動は決して策略的な煽動ではなかった。我々のう・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
・・・たとえば芸術家の晩年の傑作などには、よく青春期の幻影が蘇生し完成されたのがあるそうです。また中年以後に起こる精神的革命なども、多くはこの時期に萌え出て、そうして閑却されていた芽の、突然な急激な成長によるということです。それほどこの時期の精神・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫