・・・子供の時分からあれを見るとぞうっと総毛立って寒けを催すと同時に両方の耳の下からあごへかけた部分の皮膚がしびれるように感ずるのであった。 それから少しきたない話ではあるが、昔田舎の家には普通に見られた三和土製円筒形の小便壺の内側の壁に尿の・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た。それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし、手すりにも旗を掛け連ねた。赤、青、緑、いろい・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・軽妙な仕上げを生命とする一派の人の眼で見ればあるいは頭痛を催す種類のものかもしれない。それだけに作家の当該の自然に対する感じあるいはその自然の中に認めた生命が強い強度で表わされていると思った。それからまた「清水」と「高瀬川」という題で、絵馬・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・草花に処々釣り下げたる短冊既に面白からぬにその裏を見れば鬼ころしの広告ずり嘔吐を催すばかりなり。秋草には束髪の美人を聯想すなど考えながらこゝを出でたり。腹痛ようやく止む。鐘が淵紡績の煙突草後に聳え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・心して尋ね歩めばむかしのままなる日本固有の風景に接して、伝統的なる感興を催すことが出来ないでもない。 わたくしは日々手籠をさげて、殊に風の吹荒れた翌日などには松の茂った畠の畦道を歩み、枯枝や松毬を拾い集め、持ち帰って飯を炊ぐ薪の代りにし・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・踊子の洋装と化粧の仕方を見ても、更に嫌悪を催す様子もなく、かえって老年のわたくしがいつも感じているような興味を、同じように感じているものらしく、それとなくわたくしと顔を見合せるたびたび、微笑を漏したいのを互に強いて耐えるような風にも見られる・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・酒を買って酔を催すのも徒事である。酔うて人を罵るに至っては悪事である。烟草を喫するのもまた徒事。書を購って読まざるもまた徒事である。読んで後記憶せざればこれもまた徒事にひとしい。しかしながら為政者のなす所を見るに、酒と烟草とには税を課してこ・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ その日その日に忘れられて行く市井の事物を傍観して、走馬燈でも見るような興味を催すのは、都会に生れたものの通有する性癖であろう。されば古老の随筆にして行賈の風俗を記載せざるものは稀であるが、その中に就いて、曳尾庵がわが衣の如き、小川顕道・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・それと同じ理由から、わたくしは日本語に翻訳せられた西洋の戯曲と、殊に歌謡の演出に対して感興を催すことの甚困難であることを悲しむものである。 帝国劇場のオペラは斯くの如くして震災後に到っては年々定期の演奏をなすようになった。最初の興行より・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・内心より同情を催す事は不可能であった。わたしの眼底には既に動しがたき定見がある。定見とは伝習の道徳観と並に審美観とである。これを破却するは曠世の天才にして初めて為し得るのである。 わたしの眼に映じた新らしき女の生活は、あたかも婦人雑誌の・・・ 永井荷風 「十日の菊」
出典:青空文庫