・・・ 日が傾き出したのであろう。さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、頭に桶をのせた物売りの女が二人、簾の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿への土産らしい桜の枝を持っていた。「今、西の市で、績・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・日が傾きはじめると寒さは一入に募って来た。汗になった所々は氷るように冷たかった。仁右衛門はしかし元気だった。彼れの真闇な頭の中の一段高い所とも覚しいあたりに五十銭銀貨がまんまるく光って如何しても離れなかった。彼れは鍬を動かしながら眉をしかめ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ もうパオロの胸に触れると思った瞬間は来て過ぎ去ったが、不思議にもその胸には触れないでクララの体は抵抗のない空間に傾き倒れて行った。はっと驚く暇もなく彼女は何所とも判らない深みへ驀地に陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 長上下は、脇座にとぼんとして、ただ首の横ざまに傾きまさるのみである。「一樹さん。」 真蒼になって、身体のぶるぶると震う一樹の袖を取った、私の手を、その帷子が、落葉、いや、茸のような触感で衝いた。 あの世話方の顔と重って、五・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 風吹けば倒れ、雨露に朽ちて、卒堵婆は絶えてあらざれど、傾きたるまま苔蒸すままに、共有地の墓いまなお残りて、松の蔭の処々に数多く、春夏冬は人もこそ訪わね、盂蘭盆にはさすがに詣で来る縁者もあるを、いやが上に荒れ果てさして、霊地の跡を空しゅ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・秋の日足の短さ、日はようやく傾きそめる。さアとの掛声で棉もぎにかかる。午後の分は僅であったから一時間半ばかりでもぎ終えた。何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。民子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・喜兵衛は納得して幸手へ行き、若後家の入夫となって先夫の子を守育て、傾き掛った身代を首尾よく盛返した。その家は今でも連綿として栄え、初期の議会に埼玉から多額納税者として貴族院議員に撰出された野口氏で、喜兵衛の位牌は今でもこの野口家に祀られてい・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱ら・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・天井に映された太陽が西へ傾き、落ちると、大阪の夜の空が浮び出て来る。降るような星空だ。月が出て動く。星もいつか動く。と見る間に南極の空が浮びあがって、星の世界一周が始まったのだ。 などとこんな説明で、その浪慢的な美しさは表現できぬ。われ・・・ 織田作之助 「星の劇場」
・・・そしてもう一歩想像を進めるならば、月が少し西へ傾きはじめた頃と思います。もしそうとすればK君のいわゆる一尺ないし二尺の影は北側といってもやや東に偏した方向に落ちるわけで、K君はその影を追いながら海岸線を斜に海へ歩み入ったことになります。・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
出典:青空文庫