・・・ 青年はこう云いかけたなり、ちょいと窓の外のけはいに、耳を傾けるような眼つきになった。「雨ですね。お父さん。」「雨?」 少将は足を伸ばしたまま、嬉しそうに話頭を転換した。「また榲マルメロが落ちなければ好いが、……」・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ と長い顔を傾ける。 二「同役とも申合わせまする事で。」 と対向いの、可なり年配のその先生さえ少く見えるくらい、老実な語。「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様、水をフト失念いたしましたから、精々・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・身を傾けるほどの思いはかえって口にも出さず、そんな埒もなき事をいうて時間を送る、恋はどこまでももどかしく心に任せぬものである。三人はここで握り飯の弁当を開いた。 十「のろい足だなあ」と二、三度省作から小言が出て、午・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・それに耳を傾けると、そのさッと言ってしばらく聴えなくなる間に、僕は何だかたましいを奪われて行くような気がした。それがそのまま吉弥の胸ではないかと思った。 こんなくだらない物思いに沈んでいるよりも、しばらく怠っていた海水浴でもして、すべて・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 元来内気なこの娘は、人々がまわりにたくさん集まって、みんなが目を自分の上に向けていると思うと恥ずかしくて、しぜん唄の声も滅入るように低くはなりましたけれど、そのとき、弟の吹く笛の音に耳を傾けると、もう、自分は、広い、広い、花の咲き乱れ・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・と、その様子で察して、騒ぐのをやめて、傍に来て坐り自分も耳を傾ける。たとえ読まれる事柄の細かな筋はよく分らなくとも、部分、部分に、空想を逞うして同じく心を動かす。「お母さん、そして、どうなったのですか?」 こういう風に、自発的に、お・・・ 小川未明 「読んできかせる場合」
・・・巷の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者はたれもこの琵琶に耳を傾けるふうも見せない。朝日は輝く浮世はせわしい。『しかし僕はじっとこの琵琶僧をながめて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端のそろわない、しかもせわしそうな巷の光景が・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたい・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・父は、それに気がつかず、さらにもう一度吸い、そのまま指の間にはさみ、自分の答弁に耳を傾ける。自分が予想していた以上に、自分の答弁が快調に録音せられている。まず、これでよし。大過無し。官庁に於ける評判もいいだろう。成功である。しかも、これは日・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしているけど。」「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いていたい。」「あの曲は、何?」「ショパン。」 でたらめ・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
出典:青空文庫