・・・が、益軒は一言も加えず、静かに傾聴するばかりだった。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ それは大事な魂胆をお聞き及びになりましたので、と熱心に傾聴したる三好は顔を上げて、してそのことはどのような条規を具えているものに落札することになりましょうか。 さあその条規も格別に、これとむつかしいことはなく、ただその閣令を出す必・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」同十八日――「月を蹈んで散歩す、青・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・私はただあいまいに微笑して、かれの話を傾聴していた。「ところで、お前に一つ相談があるんだがな。クラス会だ。どうだ、いやか。大いに飲もうじゃないか。出席者が十人として、酒を二斗、これは俺が集める」「それは悪くないけど、二斗はすこし多く・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・まだ幼稚園へも行かれないような幼児が多いが、みんな一生懸命に傾聴している。勿論鼻汁を垂らしているのもある。とにかく震災地とは思われない長閑な光景であるが、またしかし震災地でなければ見られない臨時応急の「託児所」の光景であった。 この幼い・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・ 重兵衛さんの晩酌の膳を取巻いて、その巧妙なお伽噺を傾聴する聴衆の中には時々幼い自分も交じっていた。重兵衛さんの長男は自分等よりはだいぶ年長で、いつもよく勉強をしていたのでその仲間にははいらなかったが、次男の亀さんとその妹の丑尾さんとが・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・知人の婚礼にも葬式にも行かないので、歯の浮くような祝辞や弔辞を傾聴する苦痛を知らない。雅叙園に行ったこともなければ洋楽入の長唄を耳にしたこともない。これは偏に鰥居の賜だといわなければならない。 ○ 森鴎外先生が・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・だが私は、別のちがった興味でもって、人々の話を面白く傾聴していた。日本の諸国にあるこの種の部落的タブーは、おそらく風俗習慣を異にした外国の移住民や帰化人やを、先祖の氏神にもつ者の子孫であろう。あるいは多分、もっと確実な推測として、切支丹宗徒・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ もじつく子供にそう云って、その小さい肩へ片手をかけて、母たちは熱心に傾聴している。自分で自分を解決してゆこうと欲している。そういう熱意があふれ感じられた。 ひろ子は、さっき建物のそとで待っているときにうけたと同じような感動を、一座・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫