・・・まして万一を僥倖して来た、お敏の姿らしいものは、あのしおらしい紺絣の袂が、ひらめくのさえ眼にはいりません。ですから二人はお島婆さんの家の前を隣の荒物屋の方へ通りぬけると、今までの心の緊張が弛んだと云う以外にも、折角の当てが外れたと云う落胆ま・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 僥倖に、白昼の出水だったから、男女に死人はない。二階家はそのままで、辛うじて凌いだが、平屋はほとんど濁流の瀬に洗われた。 若い時から、諸所を漂泊った果に、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階借した小僧の叔母にあたる年寄がある。・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・以来、下町は火事だ。僥倖と、山の手は静かだっけ。中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐めはじめた、てっきり放火の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦さね。私が一番生捕って、御覧じろ、火事の卵を硝子の中へ泳がせて、追付け金魚の看板・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 聞えないで僥倖。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜く騒動だろう。 もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。 騒がぬ顔して、皆には、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通り静にしているよ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・せる数ではなし、もともと念晴しだけのこと、縄着は邸内から出すまいという奥様の思召し、また爺さんの方でも、神業で、当人が分ってからが、表沙汰にはしてもらいたくないと、約束をしてかかった祈なんだそうだから僥倖さ。しかし太い了簡だ、あの細い胴中を・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 露路の長屋の赤い燈に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、音を憚る出入りには、宗吉のために、むしろ僥倖だったのである。 八「何をするんですよ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ と教授は思わず苦笑して、「しかし、その方が僥倖だ。……」 今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「腹が空いたろがね。」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・そんな僥倖をたのみにした。事実天井は、墜落する前、椀をさかさまにしたように、真中が窪めて掘り上げられていた。 皆は、掘出しにかゝった。坑夫等は、鶴嘴や、シャベルでは、岩石を掘り取ることが出来なかった。で、新しい鑿岩機が持って来られ、ハッ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・今日の社会においては、もし疾病なく、傷害なく、真に自然の死をとげうる人があるとすれば、それは、希代の偶然・僥倖といわねばならぬ。 実際、いかに絶大の権力を有し、百万の富を擁して、その衣食住はほとんど完全の域に達している人びとでも、またか・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・り人を轢いたりして居る、米と株券と商品の相場は、刻々に乱高下して居る、警察・裁判所・監獄は多忙を極めて居る、今日の社会に於ては、若し疾病なく障害なく真に自然の死を遂げ得る人ありとせば、其は希代の偶然・僥倖と言わねばならぬ。 実際如何に絶・・・ 幸徳秋水 「死生」
出典:青空文庫