・・・と応えたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば埋めてまた捲き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬の色は釣り合わず蒼白い。 女は幕をひく手をつと放して内に入る。裂目を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ あの人は優しい、いい人でしたわ。そして確かりした男らしい人でしたわ。未だ若うございました。二十六になった許りでした。あの人はどんなに私を可愛がって呉れたか知れませんでした。それだのに、私はあの人に経帷布を着せる代りに、セメント袋を着せ・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・もう今日ッきり来られないのだから、お前さんの優しい言葉の一語も……。今朝こうしてお前さんと酒を飲むことが出来ようとは思わなかッたんだから……。吉里さん、私しゃ今朝のように嬉しいことはない。私しゃ花魁買いということを知ッたのは、お前さんとこが・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・然う云って了えば生優しい事だが、実はあれに就いては人の知らない苦悶をした事がある。 私は当時「正直」の二字を理想として、俯仰天地に愧じざる生活をしたいという考えを有っていた。この「正直」なる思想は露文学から養われた点もあるが、もっと大関・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・わたしがこの世に生きていた間の生活の半分はラヴェンデルの草の優しい匂のように、この部屋の空気に籠っている。人の母の生涯というものは、悲が三分一で、後の二分は心配と責苦とであろう。男というものにはそれがちっとも分らぬわいの。(櫃の傍この櫃の隅・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・極めて優しい顔であるがただ見たように思うだけで誰の肖像か分らぬ。それから暫くは火が輝いで居るばかりで何の形も現れて来ぬ。なお見つめて居ると火の真中に極めて明るい一点が見えて来た。それが次第に大きくなって往く。終に一つの大目玉が成り立った。そ・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・草木が宇宙の季節を感じるように、一日に暁と白昼と優しい黄昏の愁があるように、推移しずにはいません。いつか或るところに人間をつき出します。それが破綻であるか、或いは互いに一層深まり落付き信じ合った愛の団欒か、互いの性格と運とによりましょが、い・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・予は人の葬を送って墓穴に臨んだ時、遺族の少年男女の優しい手が、浄い赭土をぼろぼろと穴の中に翻すのを見て、地下の客がいかにも軟な暖な感を作すであろうと思ったことがある。鴎外の墓穴には沙礫乱下したのを見る外、ほとんど軟い土を投じたのを見なかった・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・役人は極優しい声でこう云った。長く浄火の中にいたものには、詞遣を丁寧にすることになっているのである。 ツァウォツキイは翌日申立をした。 役人が紙切をくれた。それに「二十四時間賜暇」と書いてあった。 それから押丁がツァツォツキイを・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・久しくそれは聞いたこともなかったものだというよりも、もう二度とそんな気持を覚えそうもない、夕ごころに似た優しい情感で、温まっては滴り落ちる雫くのような音である。初めて私がランプを見たのは、六つの時、雪の降る夜、紫色の縮緬のお高祖頭巾を冠った・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫