・・・洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。するとなぜかまぶたの裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。「莫迦だね。」 母はかすかに・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・やがて私の髪の毛が元通りになったある日、私は町で分会長の姿を見受けた。彼は現役ではないのに、相変らず軍服を着用して、威張りかえっていた。私は何となく高等学校を想い出した。銭湯へ行くのにも制服制帽を着用していた生徒たち。分会長は私を見ると、い・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ 焼けた大阪劇場も内部を修理して、もう元通りの映画とレヴュが掛っていた。常盤座ももう焼けた小屋とは見えず、元の姿にかえって吉本の興行が掛っていた。 その常盤座の前まで、正月の千日前らしい雑閙に押されて来ると、またもや呼び停められた。・・・ 織田作之助 「神経」
・・・それから元通りにして、丁寧に袂にもどした。「さ、両方手を出したり。」 看守が手錠の音をガチャ/\させて、戻ってきた。そして揃えて出した俺の両手首にそれをはめた。鉄の冷たさが、吃驚させる程ヒヤリときた。「冷てえ!」 俺は思わず・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・どうしてかと聞いてみると、よくは分らないが、何か間違いでも仕出かして、一度出されかかったのを、定客か誰かの仲裁で、再び元通りになっていた。しかしやはり工合が悪くて、結局自分でよしてしまったのであるらしい。 この事件の内容については、それ・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・すべて元通りに? いいえ、タワーリシチ、ミートシカ! 川は逆に流れない、私は元の私にはなれないんです。」 この前、インガとドミトリーとグラフィーラの三人が落ち合ったとき、グラフィーラが、今日はと云ってインガに手をさし出した。そうした・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・アーニャの色艶のない小さい顔が泣きそうに赧くなる。元通りそれが白くなる。やがて、片脚をひょこりと後に引く辞儀をして土間から出て行く迄、うめは動物的な好奇心とぼんやりした敵意とを感じながら見守った。「どうでした?」 マリーナは答えのか・・・ 宮本百合子 「街」
・・・ 長い間、落付のない汽車旅行許りして来て、ゆっくり物を読む暇もなかった私共にとって、少くとも、三四日、誰からも邪魔をされずに、楽しくしずかな時を送れると思うと其は限りない快さだった。 元通り、仕上げの精巧なブロンズのスタンドの立って・・・ 宮本百合子 「無題(二)」
出典:青空文庫