・・・「たぶん、この町には、先例の無かった事でしょう。あなたの御親戚の圭吾さん、ね、入隊していないんです。」 私は頭から、ひや水をぶっ掛けられたような気がしました。「いや、しかし、あれは、」と私は、ほとんど夢中で言いました。「あれは、・・・ 太宰治 「嘘」
・・・大隅君の厳父には、私は未だお目にかかった事は無いが、美事な薬鑵頭でいらっしゃるそうで、独り息子の忠太郎君もまた素直に厳父の先例に従い、大学を出た頃から、そろそろ前額部が禿げはじめた。男子が年と共に前額部の禿げ上るのは当り前の事で、少しも異と・・・ 太宰治 「佳日」
・・・余が博士を辞する時に、これら前人の先例は、毫も余が脳裏に閃めかなかったからである。――余が決断を促がす動機の一部分をも形づくらなかったからである。尤も先生がこれら知名の人の名を挙げたのは、辞任の必ずしも非礼でないという実証を余に紹介されたま・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ゆえに今、帝室の保護をもって、私学校を維持せしめてかねてまた学者を優待するの先例を示されたらば、世間にも次第に学問を貴ぶの風を成して、自然に学者安身の地位も生ずべきがゆえに、専業の工たり農商たり、また政治家たる者の外は、学問社会をもって畢生・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・ 然りといえども、世の中の事物は悉皆先例に傚うものなれば、有力の士は勉めてその魁をなしたきことなり。婚姻はもとより当人の意に従て適不適もあり、また後日生計の見込もなき者と強いて婚すべきには非ざれども、先入するところ、主となりて、良偶を失・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・ 近来世上に民権の議論しきりにかしましくして、外国にも先例なきが如きそのゆえんは何ぞや。今の民権論者は近来はじめてこれらの論旨を聞き得て、その奇異に驚き、これに驚き、これに動揺して、あたかも聾盲の耳目を開きたるが如きものなればなり。もと・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・ およそ人事に必要なるものは特に求めずして成るの常にして、かの内行不始末の防禦策の如きも、誰が家の主人がいずれの時にこれを発明して実行の先例を示したりなどいうべき跡はなけれども、今日の実際について見れば、主人の内行修まらざる者は、その家・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸に添地を賜わったり、鷹狩の鶴を下されたり、ふだん慇懃を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤もである。 将軍家がこ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫