・・・もっとも先刻、近松が甚三郎の話を致した時には、伝右衛門殿なぞも、眼に涙をためて、聞いて居られましたが、そのほかは――いや、そう云えば、面白い話がございました。我々が吉良殿を討取って以来、江戸中に何かと仇討じみた事が流行るそうでございます。」・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・そして鉢巻の下ににじんだ汗を袖口で拭って、炊事にかかった妻に先刻の五十銭銀貨を求めた。妻がそれをわたすまでには二、三度横面をなぐられねばならなかった。仁右衛門はやがてぶらりと小屋を出た。妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・飯屋にだってうまい物は有るぜ。先刻来る時はとろろ飯を食って来た。A 朝には何を食う。B 近所にミルクホールが有るから其処へ行く。君の歌も其処で読んだんだ。何でも雑誌をとってる家だからね。そうそう、君は何日か短歌が滅びるとおれに言った・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、「ええ、さようならばお静に。」「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ はたして省作の胸に先刻起こった、不埒な女だとかはなはだよくない人だとか思った事が、どこの隅へ消えたか、影も形も見せないのだ。省作も今はうっとりしておとよさんに見とれるほかなかった。人の話し声も雨の音もなんにも聞こえないで、夢のような、・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・何んでも早く青木から身受けの金を出させようと運動しているらしく、先刻もまた青木の言いなり放題になって、その代りに何かの手筈を定めて来たものと見えた。おッ母さんから一筆青木に当てた依頼状さえあれば、あすにも楽な身になれるというので、僕は思いも・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ハッと思って女中を呼んで聞くと、ツイたった今おいでになって、先刻は失礼した、宜しくいってくれというお言い置きで御座いますといった。 考えるとコッチはマダ無名の青年で、突然紹介状もなしに訪問したのだから一応用事を尋ねられるのが当然であるの・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・文学も先刻お話ししたとおり実に貴いものであって、わが思想を書いたものは実に後世への価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもって最大遺物ということはできない。最大遺物ということのできないわけは、一つは誰にも遺すことのできる遺物でないから最・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・赤い鳥は驚いて、雲をかすめて、ふたたび夕空を先刻きた方へと、飛んでいってしまいました。 子供は、しょんぼりとそこを立ち去りました。この哀れな有り様を見た若者は、群衆を憎らしく思いました。自分も困っていたのですけれど、まだわずかばかりの金・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・が、間もなく蝶子は先刻の芸者達を名指しで呼んだ。自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心とも分らぬ心が辛うじて出た。自分への残酷めいた快感もあった。 柳吉と一緒に大阪・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫