・・・この男は確か左の腕に松葉の入れ墨をしているところを見ると、まだ狂人にならない前には何か意気な商売でもしていたものかも知れません。僕は勿論この男とは度たび風呂の中でも一しょになります。K君はこの男の入れ墨を指さし、いきなり「君の細君の名はお松・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・私の名に、もし松があらば、げにそのままの刺青である。「素晴らしい簪じゃあないか。前髪にささって、その、容子のいい事と言ったら。」 涙が、その松葉に玉を添えて、「旦那さん――堪忍して……あの道々、あなたがお幼い時のお話もうかがいま・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・女の肌のように白い背中には、一という字の刺青が施されているのだ。一――1――一代。もしかしたらこの男があの「競馬の男」ではないか、一の字の刺青は一代の名の一字を取ったのではないかと、咄嗟の想いに寺田は蒼ざめて、その刺青は……ともうたしなみも・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 虫も殺さぬ顔をしているが、二の腕に刺青があり、それを見れば、どんな中学生もふるえ上ってしまう。女学生は勿論である。 そこをすかさず、金をせびる。俗に「ヒンブルを掛ける」のだ。 それ故の「ヒンブルの加代」だが、べつに「兵古帯お加・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・片口は無いと見えて山形に五の字の描かれた一升徳利は火鉢の横に侍坐せしめられ、駕籠屋の腕と云っては時代違いの見立となれど、文身の様に雲竜などの模様がつぶつぶで記された型絵の燗徳利は女の左の手に、いずれ内部は磁器ぐすりのかかっていようという薄鍋・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・とがはじまり、見事な、血したたるが如き紅葉の大いなる枝を肩にかついで、下腹部を殊更に前へつき出し、ぶらぶら歩いて、君、誰にも言っちゃいけないよ、藤村先生ね、あの人、背中一ぱいに三百円以上のお金をかけて刺青したのだよ。背中一ぱいに金魚が泳いで・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ワレコソ苦悩者。刺青カクシタ聖僧。オ辞儀サセタイ校長サン。「話」編輯長。勝チタイ化ケ物。笑ワレマイ努力。作家ドウシハ、片言満了。貴作ニツキ、御自身、再検ネガイマス。真偽看破ノ良策ハ、一作、失エシモノノ深サヲ計レ。「二人殺シタ親モアル。」トカ・・・ 太宰治 「創生記」
・・・力のやり場に困って身もだえの果、とうとうやけくそな悪戯心を起し背中いっぱいに刺青をした。直径五寸ほどの真紅の薔薇の花を、鯖に似た細長い五匹の魚が尖ったくちばしで四方からつついている模様であった。背中から胸にかけて青い小波がいちめんにうごいて・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ それはとにかく、額に紅を塗ったり、歯を染めたり眉を落としたりするのは、入れ墨をしたり、わざわざ傷あとを作ったりあるいは耳たぶを引き延ばし、またくちびるを鳥のくちばしのように突出させたりする奇妙な習俗と程度こそ違え本質的には共通な原理に・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・それは、全身にいろいろの刺青を施した数名の壮漢が大きな浴室の中に言葉どおりに異彩を放っていたという生来初めて見た光景に遭遇したのであった。いわゆる倶梨伽羅紋々ふうのものもあったが、そのほかにまたたとえば天狗の面やおかめの面やさいころや、それ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
出典:青空文庫