・・・今年は朝顔の培養に失敗した事、上野の養育院の寄附を依頼された事、入梅で書物が大半黴びてしまった事、抱えの車夫が破傷風になった事、都座の西洋手品を見に行った事、蔵前に火事があった事――一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・んや、誰も島屋の隠居には片づき人がなかったので、どういうものでございますか、その癖、そうやって、嫁が極りましても女房が居ましても、家へ顔を出しますのはやっぱり破風から毎年その月のその日の夜中、ちょうど入梅の真中だと申します、入梅から勘定して・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ * 夕暮よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森蔭に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の啼き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階に休めさせる。その度に堂内に安置された・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入梅だったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本当は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で『大丈夫です、すっかり乾・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 入梅があけると、空家の庭に苔がつき、めっきり青草が伸びた。雨戸はしまったままだ。 夏になったので、何処かの子供が、空地を見つける子供の本能で早速その叢へ躍り込んで来た。豌豆の手に立ててあった細い竹ぎれを振廻す男の児の裸の腹。「・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
出典:青空文庫