・・・……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし御口中ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・玄関へ立つと、面長で、柔和かなちっとも気取っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手をしながら、御逗留か、それともちょっと御入浴で、と訊いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈めつつ畏って、どうぞこれ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ところが、それほど銭湯好きの彼が何かの拍子に、ふと物臭さの惰性にとりつかれると、もう十日も二十日も入浴しなくなる。からだを動かすとプンといやな臭いがするくらい、異様に垢じみて来るのだが、存外苦にしない。これがおれの生活の臭いだと一寸惹かれて・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・食前、食間は勿論である。入浴する時は、まず新しい煙草に火をつけるほか、耳にも新しい煙草をはさんで置き、その二本を吸い終るまでは左手を濡らさなかった。 いわば、私は一刻も煙草を手から離さなかった。――というのがもし誇張なら、一刻も煙草を手・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 溺死人、海水浴、入浴、海女……そしてもっと好色的な意味で、裸体というものは一体に「濡れる」という感覚を聯想させるものだが、たしかにこの際の雨は、その娘の一糸もまとわぬ姿を、一層なまなましく……というより痛々しく見せるのに効果があった。・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じ・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ 折からこれも手拭を提げて、ゆるゆる二階を下り来るは、先ほど見たる布袋のその人、登りかけたる乙女は振り仰ぎて、おや父様、またお入浴りなさるの。幕なしねえ。と罪なげに笑う。笑顔の匂いは言わん方なし。 親子、国色、東京のもの、と辰弥は胸・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・入浴時間 十五分 規定の時間を守らざるものは入浴の順番取りかえることあるべし 警察の留置場にいたときよく、言問橋の袂に住んでいる「青空一家」や三河島のバタヤが引張られてきた。そんな連中は入ってくると、臭いジト/\したシ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴場から躍り出て、濡れた裸体に白布一枚をまとい、息ひきとった婿君の部屋のまえを素通りして、風の如く駈け込んでいった部屋は、ネロの部屋であった。三歳のネロをひしと抱きし・・・ 太宰治 「古典風」
・・・さすがに入浴の設備まではしていない。まあ、七輪の上品なものと思って居れば間違いはなかろう。風炉と釜と床の間、これに対して歎息を発し、次は炭手前の拝見である。主人が炉に炭をつぐのを、いざり寄って拝見して、またも深い溜息をもらす。さすがは、と言・・・ 太宰治 「不審庵」
出典:青空文庫