・・・こっちから訊きもしないのに何故こんな内幕咄をするのか解らなかったが、一と月ばかり経って公然入社の交渉を受けた時初めて思い当った。この交渉は相互の事情でそれぎりとなったが、緑雨と私との関係はそれが縁となって一時はかなり深く交際した。 尤も・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・が、新たに入社するものはこの伝統の社風に同感するものでも、また必ずしも沼南の人物に推服するものばかりでもなかったから、暫らくすると沼南の節度に慊らないで社員は絶えず代謝して、解体前の数年間はシッキリなしにガタビシしていた。 就中、社員が・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 勿論、今日と雖も文人の生活は猶お頗る困難であるが二十何年前には新聞社内に於ける文人の位置すら極めて軽いもので、紅葉の如き既に相当の名を成してから読売新聞社に入社したのであるが、猶お決して重く待遇されたのでは無かった。シカモ文人として生・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・私は、某新聞社の入社試験を受けたりしていた。同居の知人にも、またHにも、私は近づく卒業にいそいそしているように見せ掛けたかった。新聞記者になって、一生平凡に暮すのだ、と言って一家を明るく笑わせていた。どうせ露見する事なのに、一日でも一刻でも・・・ 太宰治 「東京八景」
長谷川君と余は互に名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった。余が入社の当時すらも、長谷川君がすでにわが朝日の社員であるという事を知らなかったように記憶している。それを知り出したのは、どう云う機会であったか今は忘却して・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・これより朝日新聞社員として、筆を執って読者に見えんとする余が入社の辞に次いで、余の文芸に関する所信の大要を述べて、余の立脚地と抱負とを明かにするは、社員たる余の天下公衆に対する義務だろうと信ずる。 私はまだ演説ということをあまり・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・一、入社の式は金三両を払うべし。一、受教の費は毎月金二分ずつ払うべし。一、盆と暮と金千匹ずつ納むべし。ただし金を納むるに、水引のしを用ゆべからず。一、このたび出張の講堂は、講書教授の場所のみにて、眠食の部屋なし。・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾新議」
・・・ 明治三十六年の七月、日露戦争が始まると云うので私は日本に帰って、今の朝日新聞社に入社した。そして奉公として「其面影」や「平凡」なぞを書いて、大分また文壇に近付いては来たが、さりとて文学者に成り済ました気ではない。矢張り例の大活動、大奮・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ここでカールは新ライン新聞に入社し、「賃労働と資本」を連載した。一八四八年十一月、カールほか二人の同志が組織していた「州民主主義協会」は、内閣が自分の防衛のために議会をベルリンから他の市へ移そうとするのに反対して、市民軍を支持して一つの檄を・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・純一君は漱石が朝日新聞に入社したころ生まれた子で、漱石の没したときにはまだ満十歳にはなっていなかった。木曜会で集まっている席へ、パジャマに着かえた愛らしい姿で、お休みなさいを言いに来たこともある。私は直接なじみになっていたわけではなく、漱石・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫