・・・この一事を見ても、子供心に信仰を有たしめるものは、全く母の感化である。 最近の新聞紙は、三山博士の子供が三人共家出をして苦しんでいるという事実を伝えている。その記事に依ると、本当の母親は小さいうちに死んでしまって、継母の手に育ったという・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・辞も何にも分らねえ髭ムクチャの土人の中で、食物もろくろく与われなかった時にゃ、こうして日本へ帰って無事にお光さんに逢おうとは、全く夢にも思わなかったよ」「そうだろうともねえ、察しるよ! 私も――縁起でもないけど――何しろお前さんの便りは・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 全く、私は女の言うことも男の言うことも、てんで身を入れてきかない覚悟をきめていた。「それをきいて安心しました」 女は私の言葉をなんときいたのか、生真面目な顔で言った。私はまだこの女の微笑した顔を見ていない、とふと思った。 ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 蒼味を帯びた薄明が幾個ともなく汚点のように地を這って、大きな星は薄くなる、小さいのは全く消えて了う。ほ、月の出汐だ。これが家であったら、さぞなア、好かろうになアと…… 妙な声がする。宛も人の唸るような……いや唸るのだ。誰か同じく脚・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・好い意味の貧乏というものは、却て他人に謙遜な好い感じを与えるものだが、併し小田のはあれは全く無茶というものだ。貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストエフスキーでさえ、貧乏ということはいゝことだが、貧乏以上の生活というものは呪うべ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・僕はよくそこから崖路を通る人を注意しているんですが、元来めったに人の通らない路で、通る人があったって、全く僕みたいにそこでながい間町を見ているというような人は決してありません。実際僕みたいな男はよくよくの閑人なんだ」「ちょっと君。そのレ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 私がおッ母さんの素人下宿を出たのは全く木村に勧められたからです。鸚鵡の一件で木村は初めてにがにがしい事情を知って、私に、それとなく、言葉少なに転宿をすすめ、私も同意して、二人で他の下宿に移りました。 木村は細長い顔の、目じりの長く・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・この敬の意識は物の価値、福利とは全く次元を異にする。倫理はこの人格価値感情を究竟の目的とすべきである。物の価値はただこの人格価値の手段としてのみ価値を持つのにすぎぬ。が人格価値はそれ自らの価値である。この人格価値を高めることが行為の目的であ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・やはり、至極巧妙に印刷され、Five など、全く本ものと違わなかった。ところが、よく見るとSも、Hも、Yも、栗島も、同様に偽札を掴まされていた。軍医正もそうだった。 ところが、更に偽札は病院ばかりでなく、聯隊の者も、憲兵も、ロシア人・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・その一眼が自分には全く与えられなかった。夫はまるで自分というものの居ることを忘れはてているよう、夫は夫、わたしはわたしで、別々の世界に居るもののように見えた。物は失われてから真の価がわかる。今になって毎日毎日の何でも無かったその一眼が貴いも・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫