・・・……お旦那、軒の八重桜は、三本揃って、……樹は若えがよく咲きました。満開だ。――一軒の門にこのくらい咲いた家は修善寺中に見当らねえだよ。――これを視めるのは無銭だ。酒は高価え、いや、しかし、見事だ。ああ、うめえ。万屋 くだらない事を言い・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・食わせる訳にもゆかず、せめてスカンポか茅花でも無いかと思っても見当らず、茗荷ぐらいは有りそうなものと思ってもそれも無し、山椒でも有ったら木の芽だけでもよいがと、苦みながら四方を見廻しても何も無かった。八重桜が時々見える。あの花に味噌を着けた・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・前は桜樹の隧道、花時思いやらる。八重桜多き由なれど花なければ吾には見分け難し。植半の屋根に止れる鳶二羽相対してさながら瓦にて造れるようなるを瓦じゃ鳥じゃと云ううち左なる一羽嘲るがごとく此方を向きたるに皆々どっと笑う。道傍に並ぶ柱燈人造麝香の・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・文化年間に至って百花園の創業者佐原菊塢が八重桜百五十本を白髭神社の南北に植えた。それから凡三十年を経て天保二年に隅田村の庄家阪田氏が二百本ほどの桜を寺島須崎小梅三村の堤に植えた。弘化三年七月洪水のために桜樹の害せられたものが多かったので、須・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫