・・・ましてお公卿様などは、それはそれは甚だ窘乏に陥っておられたものだろう。それでその頃は立派な家柄の人が、四方へ漂泊して、豪富の武家たちに身を寄せておられたことが、雑史野乗にややもすれば散見する。植通も泉州の堺、――これは富商のいた処である、あ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・よいわ、京へ人を遣って、当りを付けて瘠公卿の五六軒も尋ね廻らせたら、彼笛に似つこらしゅうて、あれよりもずんと好い、敦盛が持ったとか誰やらが持ったとかいう名物も何の訳無う金で手に入る。それを代りに与えて一寸あやまる。それで一切は済んで終う。た・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・し、世界中のあらゆる文豪のエッセンスを持っているのだそうで、その少年時代にひとめ見た少女を死ぬほどしたい、青年時代にふたたびその少女とめぐり逢い、げろの出るほど嫌悪するのであるが、これはいずれバイロン卿あたりの飜案であろう。しかも稚拙な直訳・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・ 私はまじめに、「それでは、やはり、公卿の出かも知れない」と言って、彼の虚栄心を満足させてやった。「うん、まあ、それは、はっきりはわからないが、たいてい、その程度のところなのだ。俺だけはこんな、汚い身なりで毎日、田畑に出ているが・・・ 太宰治 「親友交歓」
「忠直卿行状記」という小説を読んだのは、僕が十三か、四のときの事で、それっきり再読の機会を得なかったが、あの一篇の筋書だけは、二十年後のいまもなお、忘れずに記憶している。奇妙にかなしい物語であった。 剣術の上手な若い殿様・・・ 太宰治 「水仙」
・・・ずっと昔、ケルヴィン卿が水の固定波か何かの問題を取り扱うために伝導の式に虚の項を持ち込んだことがあったようなぼんやりした記憶があるが、事実は確かでない。しかしとにかくそういう種類の考えも、少なくも一つのヒントとしては役立つであろうと思うので・・・ 寺田寅彦 「自然界の縞模様」
・・・ 今年の正月にノースクリッフ卿がコロンボでタイムスの通信員に話した談話の中に、「東洋の新聞の中では日本のがいちばん信用ができる。ただしいわゆる『第三面』として知られた notorious scandal のためにそこなわれてはいるが」と・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・また昔レーリー卿が紅茶茶わんをガラス板の上ですべらせてみて、ガラスのよごれ方でひどく摩擦のちがうことを見て考え込んでいたことがあるが、これは近年になって固体や液体の表層に吸着した単分子層の研究の先駆をなしたものであった。これと似寄ったことで・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・もし木戸松菊がいたらば――明治の初年木戸は陛下の御前、三条、岩倉以下卿相列座の中で、面を正して陛下に向い、今後の日本は従来の日本と同じからず、すでに外国には君王を廃して共和政治を布きたる国も候、よくよく御注意遊ばさるべくと凜然として言上し、・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・大臣を「卿」と称した頃の官吏の一人であった。一時、頻と馬術に熱心して居られたが、それも何時しか中止になって、後四五年、ふと大弓を初められた。毎朝役所へ出勤する前、崖の中腹に的を置いて古井戸の柳を脊にして、凉しい夏の朝風に弓弦を鳴すを例とした・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫