・・・その時の犠牲は三十恰好の商人風の男で、なんでも茶がかった袷の着流しに兵児帯をしめていたように思う。それが下駄を片手にぶらさげて跣足で田の畦を逃げ廻るのを、村のアマゾン達が巧妙な戦陣を張ってあらゆる遁げ路を遮断しながらだんだんに十六むさしの罫・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・つれにおくれまいとして背なかにむすんだ兵児帯のはしをふりながらかけ足で歩く、板裏草履の小娘。「ぱっぱ女学生」と土地でいわれている彼女たちは、小刻みに前のめりにおそろしく早く歩く。どっちかの肩を前におしだすようにして、工場の門からつきとばされ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・銀座の商店の改良と銀座の街の敷石とは、将来如何なる進化の道によって、浴衣に兵児帯をしめた夕凉の人の姿と、唐傘に高足駄を穿いた通行人との調和を取るに至るであろうか。交詢社の広間に行くと、希臘風の人物を描いた「神の森」の壁画の下に、五ツ紋の紳士・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・しかし巡査の概念として白い服を着てサーベルをさしているときめると一面には巡査が和服で兵児帯のこともあるから概念できめてしまうと窮屈になる。定義できめてしまっては世の中の事がわからなくなると仏国の学者はいうている。 物は常に変化して行く、・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・「傘だけじゃ駄目だ。君、気の毒だがね」「うん。ちっとも気の毒じゃない。どうするんだ」「兵児帯を解いて、その先を傘の柄へ結びつけて――君の傘の柄は曲ってるだろう」「曲ってるとも。大いに曲ってる」「その曲ってる方へ結びつけて・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ そこには、網棚から兵児帯を吊して、首でも縊る時のように、輪の中へ顎を引っかけて、グウグウ眠っている男があった。 車室はやけに混んでいた。デッキには新聞紙を敷いて三四人も寝ていた。通路にさえ三十人も立ったり、蟠ったりしていた。眼ばか・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ が、吉田はすべての感情を押し堪えて、子供を背中に兵児帯で固く縛りつけて、高等係中村と家を出た。 子供は、早朝の爽やかな空気の中で、殊に父に負ぶさっていると云う意識の下に、片言で歌を唄いながら、手足をピョンピョンさせた。――一九・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 顔役で、部長の勘助が兵児帯をなおしながら立ち上った。「ちょっくら見て来べえ、万一何事かおっ始まってるに、おれたちゃあ酒くらって知んねえかったといわれたらなんねえ」 勘助が、もう一人と暗い土間で履物を爪先探りしている時、けたたま・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・紺絣に白木綿の兵児帯をぐるぐる巻きにした小僧、笊をもってこぼれる銭をあつめる。畳の上へ賽銭箱をバタン、こっちへバタンと引っくりかえすが出た銅貨はほんのぽっちり。今度は正面の大賽銭箱。すのこのように床にとりつけてある一方が鍵で開くらしい。年よ・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・大きい一彰という人が白縮緬の兵児帯に白羽二重の襟巻なんかして、母のところを訪ねて来たのを覚えている。この伯父は、母に向ってもやっと膝に手をおいたままうなずくだけであった。そのひとの子が家をつぐことになっていたのがやはりごたついて、流転生活の・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
出典:青空文庫