・・・ひもにはりつけた赤い紙片の上にはってある切手の消印を読もうとして苦しんでいたが、消印はただ輪郭の円形がぼんやり見えるだけであった。「実に無責任だなあ」郵便局に対する不平を口の内でつぶやきながら、空虚な円の中から何かを見いだそうとして、ためつ・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・ 切り立ての鋏穴は円形から直角の扇形を取りのけた格好をしている。私の指先でもみ拡げられた穴にもその形の痕跡だけはちゃんと残っているが、穴の直径が二、三割くらいは大きくなって、穴の周辺が毛ば立ち汚れている。 もう一人の車掌もやって来て・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・からすれば、これらの伝播の前面は完全なる円形をなすはずであるが、実際の現象を注意して見ていると、円形になるほうがむしろ不思議なようにも思われて来る。たとえばアルコホルの沿面燃焼などはほとんど完全な円形な前面をもって進行するが、こういう場合は・・・ 寺田寅彦 「自然界の縞模様」
・・・すなわち星形や十字形のものと、円形のものとを見分けることができるというのである。 しかし甘納豆の場合にはこの物の形が蜂を誘うたとは思われない。何か嗅覚類似の感官にでもよるのか、それとも、偶然工場に舞い込んだ一匹が思いもかけぬ甘納豆の鉱山・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・吐いてみたら黒い血が泥だらけの床の上に直径十センチくらいの円形を染めた。引続いて吐いたのはやや赤い中に何だか白いものの交じったので、前のの側に不規則な形をして二倍くらいの面積を染めた。浅利君が水を持って来たから医者を呼んでくれと頼んだ。吐い・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・この二つの場合に何ゆえに対称的な同心円形が現われないで有限数の放射線が現われるか。これは今のところ不思議だと言っておくよりほかにしかたがない。 金米糖を作るときに何ゆえにあのような角が出るか。角の数が何で定まるか、これも未知の問題である・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・しかし当初この煉瓦造を経営した建築者の理想は家並みの高さを一致させた上に、家ごとの軒の半円形と円柱との列によって、丁度リボリの街路を見るように、美しいアルカアドの眺めを作らせるつもりであったに違いない。二、三十年前の風流才子は南国風なあの石・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・もしそれも出来なければ円形か四角か六角かにきっぱり切った石を建ててもらいたい。彼自然石という薄ッぺらな石に字の沢山彫ってあるのは大々嫌いだ。石を建てても碑文だの碑銘だのいうは全く御免蒙りたい。句や歌を彫る事は七里ケッパイいやだ。もし名前でも・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 父が外遊中、家計はひどくつましくて、私たちのおやつは、池の端の何とかいう店の軽焼や、小さい円形ビスケット二十個。或はおにぎりで、上野の動物園にゆくとき、いつもその前のおひるはお握りだった。母はずっとあとになってからでも、小さい子供たち・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・背筋のひきしまるような気もちで、人気のない長廊下を来て柵のところの机に、電燈の光を肩から浴びた受付の人の姿を見るとき、人里に近づいた暖かみと安心とを覚え、階段にかかっている円形時計の面を見上げるのであった。その円形時計は、針が止ったまま、恰・・・ 宮本百合子 「図書館」
出典:青空文庫