九月の始めであるのに、もはや十月の気候のように感ぜられた日もある。日々に、東京から来た客は帰って、温泉場には、派手な女の姿が見られなくなった。一雨毎に、冷気を増して寂びれるばかりである。 朝早く馬が、向いの宿屋の前に繋がれた。其の・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るような冷気が径へ通っているところだった。一本の古びた筧がその奥の小暗いなかからおりて来ていた。耳を澄まして聴くと、幽かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。私の期待はその水音だった。 どう・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・和服の着流しでコンクリートのたたきに蹲っていると、裾のほうから冷気が這いあがって来て、ぞくぞく寒く、やりきれなかった。午前九時近くなって、君たちの汽車が着いた。君は、ひとりで無かった。これは僕の所謂「賢察」も及ばぬところであった。 ざッ・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・頬白は塒を求めて慌ててさまよった。冷気を含んだ疾風がごうと蜀黍の葉をゆすって来た。遠く夕立の響が聞えて来た。文造は堪らなくなった。彼は鍬を担いで飛び出した。それと同時に屋根へ打ち込んだ鎌の切先が文造の額に触れた。はっと押えた時文造の手の平は・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・余が想像の糸をここまでたぐって来た時、室内の冷気が一度に背の毛穴から身の内に吹き込むような感じがして覚えずぞっとした。そう思って見ると何だか壁が湿っぽい。指先で撫でて見るとぬらりと露にすべる。指先を見ると真赤だ。壁の隅からぽたりぽたりと露の・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・あまりの絶景に恍惚として立ちも得さらず木のくいぜに坐してつくづくと見れば山更にしんしんとして風吹かねども冷気冬の如く足もとよりのぼりて脳巓にしみ渡るここちなり。波の上に飛びかう鶺鴒は忽ち来り忽ち去る。秋風に吹きなやまされて力なく水にすれつあ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 三月で、近くの地面の底にも、遠くの方に見える護国寺の森の梢にも春が感じられる、そこへ柔かく降り積む白雪で、早春のすがすがしさが冷気となってたちのぼるような景色であった。 藍子は、朝飯をすますと直ぐ、合羽足駄に身をかためて家を出た。・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・私は、一時に四方の薄暗さと冷気が身にこたえる涼台の上で、堅唾をのんで、報道を聞いた。どんな田舎の新聞でも、戒厳令を敷いたことまで誤報はしまい。そうすれば、どんなに軽く見積っても、昨日の十二時以後東京はその非常手段を必要とするだけ険悪な擾乱に・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
出典:青空文庫