・・・ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――それだけが頭に拡がっていた。 すると突然次の間から、慌しく看護婦が駆けこんで来た。「どなたかいらしって下さいましよ。どなたか、――」 慎太郎は咄嗟に身を起すと、もう次の瞬間・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・彼の顔には、――血走った眼の中には、凄まじい殺意が閃いていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見る内に、云いようのない恐怖に変って行った。「誰だ、お前は?」 彼は椅子の前に立ちすくんだまま、息のつまりそうな声を出した。「さ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・都でもこの後五百年か、あるいはまた一千年か、とにかくその好みの変る時には、この島の土人の女どころか、南蛮北狄の女のように、凄まじい顔がはやるかも知れぬ。」「まさかそんな事もありますまい。我国ぶりはいつの世にも、我国ぶりでいる筈ですから。・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 何時間かの後、この歩兵陣地の上には、もう彼我の砲弾が、凄まじい唸りを飛ばせていた。目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙を揚げた。その土煙の舞い上る合間に、薄紫の光が迸るのも、昼だけに、一層悲壮だった。・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・もっとも敵の地雷火は凄まじい火柱をあげるが早いか、味かたの少将を粉微塵にした。が、敵軍も大佐を失い、その次にはまた保吉の恐れる唯一の工兵を失ってしまった。これを見た味かたは今までよりも一層猛烈に攻撃をつづけた。――と云うのは勿論事実ではない・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・同時にまた海は右舷全体へ凄まじい浪を浴びせかけた。それは勿論あっと言う間に大砲に跨った水兵の姿をさらってしまうのに足るものだった。海の中に落ちた水兵は一生懸命に片手を挙げ、何かおお声に叫んでいた。ブイは水兵たちの罵る声と一しょに海の上へ飛ん・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・が、何しろ凄まじい速力で、進行していた電車ですから、足が地についたと思うと、麦藁帽子が飛ぶ。下駄の鼻緒が切れる。その上俯向きに前へ倒れて、膝頭を摺剥くと云う騒ぎです。いや、もう少し起き上るのが遅かったら、砂煙を立てて走って来た、どこかの貨物・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・閉込んだ硝子窓がびりびりと鳴って、青空へ灰汁を湛えて、上から揺って沸立たせるような凄まじい風が吹く。 その窓を見向いた片頬に、颯と砂埃を捲く影がさして、雑所は眉を顰めた。「この風が、……何か、風……が烈しいから火の用心か。」 と・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・あ、この幽艶清雅な境へ、凄まじい闖入者! と見ると、ぬめりとした長い面が、およそ一尺ばかり、左右へ、いぶりを振って、ひゅっひゅっと水を捌いて、真横に私たちの方へ切って来る。鰌か、鯉か、鮒か、鯰か、と思うのが、二人とも立って不意に顔を見合わせ・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・喜多八、はたごが安いも凄まじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……馬鹿なつらな、銭は出すから飯をくんねえ。……無慙や、なけなしの懐中を、けっく蕎麦だけ余計につかわされて悄気返る。その夜、故郷の江戸お箪笥町引出し横町、取手屋の鐶兵衛・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
出典:青空文庫