・・・東京ももう朝晩は大分凌ぎよくなっているでしょう。どうかお子さんたちにもよろしく言って下さい。 芥川竜之介 「手紙」
・・・ 石の左右に、この松並木の中にも、形の丈の最も勝れた松が二株あって、海に寄ったのは亭々として雲を凌ぎ、町へ寄ったは拮蟠して、枝を低く、彼処に湧出づる清水に翳す。…… そこに、青き苔の滑かなる、石囲の掘抜を噴出づる水は、音に聞えて、氷・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・てれかくしと、寒さ凌ぎに夜なしおでんで引掛けて来たけれど、おお寒い。」と穴から渡すように、丼をのせるとともに、その炬燵へ、緋の襦袢むき出しの膝で、のめり込んだのは、絶えて久しい、お妻さん。……「――わかたなは、あんやたい――」若旦那は、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・鼻も耳も吹切られそうで、何とも凌ぎ切れませんではござりますまいか。 三右衛門なども、鼻の尖を真赤に致して、えらい猿田彦にござります。はは。」 と変哲もない愛想笑。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 舳櫓の船子は海上鎮護の神の御声に気を奮い、やにわに艪をば立直して、曳々声を揚げて盪しければ、船は難無く風波を凌ぎて、今は我物なり、大権現の冥護はあるぞ、と船子はたちまち力を得て、ここを先途と漕げども、盪せども、ますます暴るる浪の勢に、・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・例の紺の筒袖に、尻からすぽんと巻いた前垂で、雪の凌ぎに鳥打帽を被ったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きな鷭が沼の鰌を狙っている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。 境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・よし河の水が増して来たところで、どうにか凌ぎのつかぬ事は無かろうなどと考えつつ、懊悩の頭も大いに軽くなった。 平和に渇した頭は、とうてい安んずべからざるところにも、強いて安居せんとするものである。 二 大雨が・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・よほど痒みも少なくて凌ぎよい。その代り秋末の肌寒さに、手足を蝦のように縮めて寝た。 周囲は鼾や歯軋の音ばかりで、いずれも昼の疲れに寝汚く睡りこんでいる。町を放れた場末の夜はひっそりとして、車一つ通らぬ。ただ海の鳴る音が宵に聞いたよりもも・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・鉄工所の人は小さなランチヘ波の凌ぎに長い竹竿を用意して荒天のなかを救助に向かった。しかし現場へ行って見ても小さなランチは波に揉まれるばかりで結局かえって邪魔をしに行ったようなことになってしまった。働いたのは島の海女で、激浪のなかを潜っては屍・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
見るさえまばゆかった雲の峰は風に吹き崩されて夕方の空が青みわたると、真夏とはいいながらお日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる。やがて五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光って見える、その下を蝙蝠が得たり顔にひらひらとかなたこな・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
出典:青空文庫