・・・小間物店の若い娘が、毛糸の手袋嵌めたのも、寒さを凌ぐとは見えないで、広告めくのが可憐らしい。 気取ったのは、一軒、古道具の主人、山高帽。売っても可いそうな肱掛椅子に反身の頬杖。がらくた壇上に張交ぜの二枚屏風、ずんどの銅の花瓶に、からびた・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・自分はそれに促されて、明日の事は明日になってからとして、ともかくも今夜一夜を凌ぐ画策を定めた。 自分は猛雨を冒して材木屋に走った。同業者の幾人が同じ目的をもって多くの材料を求め走ったと聞いて、自分は更に恐怖心を高めた。 五寸角の土台・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・葉が落ちかけて居るけれど、十月の熱を凌ぐには十分だ。ここへあたりの黍殻を寄せて二人が陣どる。弁当包みを枝へ釣る。天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚ずつ脱ぐ。風を懐へ入れ足を展して休む。青ぎった空に翠の松林、百舌もどこか・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・曰く、「(戊戌夏に至りては愈々その異なるを覚えしかども尚悟らず、こは眼鏡の曇りたる故ならめと謬り思ひて、俗に本玉とかいふ水晶製の眼鏡の価貴きをも厭はで此彼と多く購ひ求めて掛替々々凌ぐものから(中略、去歳庚子夏に至りては只朦々朧々として細字を・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・例えば二葉亭の如き当時の造詣はむしろ坪内君を凌ぐに足るほどであったが、ツマリ「文学士春の屋おぼろ」のために崛起したので、坪内君莫かっせばあるいは小説を書く気には一生ならなかったかも知れぬ。また『浮雲』の如き世論『書生気質』以上であるが、坪内・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・配給と買出しにしばられて、会合に出席する時間さえもてないでいる主婦たちの毎日が、どんなに凌ぐに張合あるものとなって来るだろう。大小の軍需成金たちは、戦時利得税や、財産税をのがれるために濫費、買い漁りをしているから、インフレーションは決して緩・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・マリヤは、しんから科学の学問がすきで、そこに尽きることのない研究心と愛着とを誘われ、そういう人間の知慧のよろこびにひかれて、その勉強のためには、雄々しく辛苦を凌ぐ粘りと勇気がもてたのでした。このことは、彼女が同じソルボンヌ大学で既に数々の重・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人の命の焔」
・・・私の三十三歳の一年などというものは、はたも自分もそんなことを思うどころでない朝夕の動きの間で過ぎたのであったが、もし本気で厄除けなどを考えだしたら、今年のような世の中を凌ぐ主婦たちに、どんな禁厭が利くというのだろう。それを思うと、今日では女・・・ 宮本百合子 「小鈴」
・・・学舎の壁は火で煤け、天井はやっと夜露を凌ぐばかりだが学者達は半片の紙、半こわれの検微鏡を奇蹟のように働かせて、真理へ一歩迫ろうとしています。イオイナ そうだろう。――そうなければなりません。そして、私の忠実な僕の芸術家達は、巫女のような・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・をよぎなくされたのであった。「人間喜劇」の作者が、エンゲルスによってその政治的見解いかんにかかわらず「フランス社会の全歴史をまとめ」た「過去現在未来のあらゆるゾラ」を凌ぐリアリスト芸術家とされていることは、一連の人々にとって、さながら彼・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
出典:青空文庫