・・・の中には、ニイチェが非常に著るしく現れて居り、死を直前に凝視してゐたこの作者が、如何に深くニイチェに傾倒して居たかがよく解る。 西洋の詩人や文学者に、あれほど広く大きな影響をあたへたニイチェが、日本ではただ一人、それも死前の僅かな時期に・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 生きる歓喜にむせぶような心もちの少女が、死の迫って来る力、生命の消されてゆく過程に、息をのんで凝視したこともわかるが、しかし、人間関係が二次的に扱われたことに、意味ふかい限界が示されている。十九の少女は、自分の日々がその中で営まれてい・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第一巻)」
・・・青野季吉氏が二月の『中央公論』に「作家の凝視」ということを書いていられる。現実を凝視する粘りづよさを作家に求めているのである。作家が自身の作品に深々と腰をおろしている姿には殆ど接し得ないという、「作品と作家の間の不幸な関係は、そのままで放置・・・ 宮本百合子 「作家に語りかける言葉」
・・・ その静かな愛、鎮まった魂の凝視、何故其が自分に涙をこぼさせるのだろう。 私は、彼のセルフコントロールに、絶対の信頼と尊敬とを持って居る。 彼は私を父親のように愛し、守り、助けてくれる、其でいいのだ、そう人を私は待って居たのでは・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・醜くくはない顔の大きい目が、外眦を引き下げられて、異様に開いて、物に驚いたように正面を凝視している。藤子が食い付きそうだと云ったのも無理は無い。 附き添って来たお上さんは、目の縁を赤くして、涙声で一度翁に訴えた通りを又花房に訴えた。・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・徹夜をした人の目のように、軽い充血の痕の見えている目は、余り周囲の物を見ようともせずに、大抵直前の方向を凝視している。この男の傍には、少し背後へ下がって、一人の女が附き添っている。これも支度が極地味な好みで、その頃流行った紋織お召の単物も、・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・君が語り畢る時、私は君の面を凝視して、そこに Ironie の表情を求めた。しかしそれは徒事であった。 F君は芸者の詞を真実だと思って、そのまま私に話したのであった。私は驚いた。そして云った。「日本の女は横著なようで、おとなしい。それが・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・最早懐疑と凝視と涕涙と懐古とは赦されぬであろう。その各自の熱情に従って、その美しき叡智と純情とに従って、もしも其爆発力の表現手段が分裂したとしたならば、それは明日の文学の祝福すべき一大文運であらねばならぬ。そうして、明日の文学は分裂するであ・・・ 横光利一 「黙示のページ」
・・・いかに苦しんでも苦しみ足りるという事のないこの人生を、私はともすれば調子づいて軽々しく通って行く、そしてその凝視の不足は直ちに表現の力弱さとして私に報いて来るのである。私はもっとしっかりと大地を踏みしめて、あくまで浮かされることを恐れなくて・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・黄不動の線を凝視せよ。赤不動の色を凝視せよ。ここに日本画を現在の浪漫主義から救う唯一の道がありはしないか。 僕は暗示的な描き方を排しようとするのではない。ただその狭い領域に立てこもることの危険を感ずるのである。 さて右のごとき問題を・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫