先生。 私は今日から休ませてもらいます。みんながイジめるし、馬鹿にするし、じゅ業料もおさめられないし、それに前から出すことにしてあった戦争のお金も出せないからです。先生も知っているように、私は誰よりもウンと勉強して偉く・・・ 小林多喜二 「級長の願い」
・・・其日々々の勤務――気圧を調べるとか、風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追われて、月日を送るという境涯でも、あの蛙が旅情をそそるように鳴出す頃になると、妙に寂しい思想を起す。旅だ――五月・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・老人は隠しの中の貨幣を勘定しながら、絶えず唇を動かして独言を言って、青い目であちこちを見て、折々手を隠しから出さずに肘を前の方へ突き出すのである。その様子が自分の前を歩いているものを跡からこづいて、立ち留らせて、振返えらせようとするようであ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・あっと言って立ち上ると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさま・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・そんなにして坐っていて、わたしの顔を見ているその目付で、わたしの考えの糸を、丁度繭から絹糸を引き出すように手繰出すのだわ。その手繰出されたわたしの考えは疑い深い考えかも知れない。わたしにもよく思って見なくちゃあ分からないわ。一体お前さんはな・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・眼の裡に、思いは開き閉じ、耀き出すかと思えば、闇の中に消え去ります。沈んでゆく月のように凝っと一つところにかかったり、又は、迅い閃く稲妻のように、空――眼全体を照したり。生れ落るとから、唇の戦きほか言葉を持たずに来たものは、表し方に限りがな・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・という長編戯曲に就いては私は、いまでも、その中の人物の表情までも、はっきり思い出すことができるのであります。 長兄が三十歳のとき、私たち一家で、「青んぼ」という可笑しな名前の同人雑誌を発行したことがあります。そのころ美術学校の塑像科に在・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ さて到る処で紹介状を出すと、どこでも非常に厚く待遇する。いかに自分の勤めている銀行が大銀行だとしても、その中のいてもいなくても好い役人の受くべき待遇ではない。そこでチルナウエルは次第に小さい銀行員たることを忘れて、次第に昔話の魔法で化・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
樹々の若葉の美しいのが殊に嬉しい。一番早く芽を出し始めるのは梅、桜、杏などであるが、常磐木が芽を出すさまも何となく心を惹く。 古葉が凋落して、新しい葉がすぐ其後から出るということは何となく侘しいような気がするものである。椿、珊・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。」「不思議な、人を牽き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とでもいうような様子があるが、彼は実際にそうである。数学が出来ると同じ程度・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫