・・・それさえちゃんとわかっていれば、我々商人は忽ちの内に、大金儲けが出来るからね」「じゃ明日いらっしゃい。それまでに占って置いて上げますから」「そうか。じゃ間違いのないように、――」 印度人の婆さんは、得意そうに胸を反らせました。・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ちゃぷりちゃぷりと小さな波が波打際でくだけるのではなく、少し沖の方に細長い小山のような波が出来て、それが陸の方を向いて段々押寄せて来ると、やがてその小山のてっぺんが尖って来て、ざぶりと大きな音をたてて一度に崩れかかるのです。そうすると暫らく・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・「あなた、珈琲が出来ました。もう五時です。」こう云うのはフレンチの奥さんである。若い女の声がなんだか異様に聞えるのである。 フレンチは水落を圧されるような心持がする。それで息遣がせつなくなって、神経が刺戟せられる。「うん。すぐだ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 貴夫人はもう誰にも光と温とを授けることは出来ないだろう。 それで魚に同情を寄せるのである。 なんであの魚はまだ生を有していながら、死なねばならないのだろう。 それなのにぴんと跳ね上がって、ばたりと落ちて死ぬるのである。単純・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・レリヤは平手で膝を打って出来るだけ優しい声で呼んだ。それでも来ないので、自分が犬の方へ寄って来た。しかし迂濶に側までは来ない。人間の方でも噛まれてはならぬという虞があるから。「クサチュカ、どうもするのじゃないよ。お前は可哀い眼付をして居・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・それで三十一字に纏りかねたら字あまりにするさ。それで出来なけれあ言葉や形が古いんでなくって頭が古いんだ。B それもそうだね。A のみならず、五も七も更に二とか三とか四とかにまだまだ分解することが出来る。歌の調子はまだまだ複雑になり得・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・目を見交したばかりで、かねて算した通り、一先ず姿を隠したが、心の闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴れたせいであろう。 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦んでいるのであった。(まず・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ そんな事は出来ない。いったいあんな所へ牛を置いちゃいかんじゃないか。 それですからこれから牽くのですが。 それですからって、あんな所へ牛を置いて届けても来ないのは不都合じゃないか。 無情冷酷……しかも横柄な駅員の態度である・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・わないで家にかえると親の因果でそれなりにもしておけないので三所も四所も出て長持のはげたのを昔の新らしい時のようにぬりなおして木薬屋にやると男にこれと云うきずもなく身上も云い分がないんでやたらに出る事も出来ないので化病を起して癲癇を出して目を・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・世の中が楽しいなぞという未練が残ってる間は、決して出来るものじゃアない。軍紀とか、命令とかいうもので圧迫に圧迫を加えられたあげく、これじゃアたまらないと気がつく個人が、夢中になって、盲進するのだ。その盲進が戦争の滋養物である様に、君の現在で・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
出典:青空文庫