・・・ 息子は、負けずぎらいな親爺をたしなめるように怒鳴った。「相手が地主の一人娘じゃねえか」 息子は、分別深く話した。「地主はスッカリ怒っていて、小作の田畑を全部とりあげると云うんだ。俺ァはァ、一生懸命詫びたがどうしてもきかねえ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・が馬車馬の前足と並んだ時、すなわち余の身体が鉄道馬車と荷車との間に這入りかけた時、一台の自転車が疾風のごとく向から割り込んで来た、かようなとっさの際には命が大事だから退却にしようか落車にしようかなどの分別は、さすがの吾輩にも出なかったと見え・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・、己のために千円使うことができるのだから誠に結構なことで、諸君もなるべく精出して人のためにお働きになればなるほど、自分にもますます贅沢のできる余裕を御作りになると変りはないから、なるべく人のために働く分別をなさるが宜しかろうと思う。 も・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・人の働もまた、千緒万端に分別してこれに応ぜざるべからず。すなわち人事の分業分任なり。すでにこれを分てこれに任ずるときは、おのおの長ずるところあるべきは自然の理にして、農商の事に長ずるものあり、工芸技術に長ずるものあり、あるいは学問に長じ、あ・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・けれどお七の心の中には賢もなく愚もなく善もなく悪もなく人間もなく世間もなく天地万象もなく、乃至思慮も分別もなくなって居る。ある者はただ一人の、神のような恋人とそれに附随して居る火のような恋とばかりなのである。もし世の中に或る者が存して居ると・・・ 正岡子規 「恋」
・・・いかにも分別くさそうに腕を拱きながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。 樺の木は何だか少し困ったように思いながらそれでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影は草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにや・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
・・・絶望し、分別を失ったドイツの民衆は、それがなんであろうと目前に希望をあたえ、気休めをあたえるものにすがりつき、いかがわしい予言者だの、小政党だのが続々頭をもたげた。 ヒトラーのナチスも、はじめはまったくその一としてあらわれた。当時のドイ・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・当選しようとすれば、アメリカ人民の要求を理解し、それに応える決心をしなければならないということについて、トルーマンがデューイよりも分別をもっていたからであった。ことばをかえていえば、アメリカの分別ある人々が、自分たちの要求をはっきり示すこと・・・ 宮本百合子 「新しい潮」
・・・そのたわけを家中の人が分別者利発人とほめる。ついに家中の十人の内九人までが軽薄なへつらい者になり、互いに利害相結んで、仲間ぼめと正直者の排除に努める。しかも大将は、うぬぼれのゆえに、この事態に気づかない。百人の中に四、五人の賢人があっても目・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・それは真善美に分別せられ得るあらゆる価値を、欲し造り支持する。この人類の前にあっては、生物学的に意味せられた民族の別のごときは根本の問題ではない。我々がエジプトの彫刻に接して、その不思議な生きた感じに打たれるとき、我々は真実にエジプト人の血・・・ 和辻哲郎 「『劉生画集及芸術観』について」
出典:青空文庫