・・・達雄は場末のカフェのテエブルに妙子の手紙の封を切るのです。窓の外の空は雨になっている。達雄は放心したようにじっと手紙を見つめている。何だかその行の間に妙子の西洋間が見えるような気がする。ピアノの蓋に電燈の映った「わたしたちの巣」が見えるよう・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・父はややしばらく自分の怒りをもて余しているらしかったが、やがて強いてそれを押さえながら、ぴちりぴちりと句点でも切るように話し始めた。「いいか。よく聞いていて考えてみろ。矢部は商人なのだぞ。商売というものはな、どこかで嘘をしなければ成り立・・・ 有島武郎 「親子」
・・・……ここから門のすぐ向うの茄子畠を見ていたら、影法師のような小さなお媼さんが、杖に縋ってどこからか出て来て、畑の真中へぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃアありませんか。思出すわ。……鋤鍬じゃなかったんですもの。・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・十日ばかり以前から今日あることは判っているから充分の覚悟はしているものの、今さらに腹の煮え切る思いがする。「さあおとよさん、一緒にゆきましょう」 お千代は枝折戸の外まできて、「まあえい天気なこと」 お千代は気楽に田圃を眺めて・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・性来頗る器用人で、影画の紙人形を切るのを売物として、鋏一挺で日本中を廻国した変り者だった。挙句が江戸の馬喰町に落付いて旅籠屋の「ゲダイ」となった。この「ゲダイ」というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・腰には、岩を砕き、根を切る道具を結びつけていたので、しんぱくは、だれを目あてにやってくるのか、すぐに悟ったのでありました。「ああ、いい木だ。長いことにらんでいたのだが、まったく命がけでなければ取れるところでない。」と、年をとった男は、独・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・ と、がっかりしながら、電話を切ると、暫らくぽかんと突っ立っていたが、やがて何思ったのか、あわててトランクを手にすると、そわそわと出て行った。 ノッポの大股で、上本町から馬場町まですぐだった。 放送局の受付へかけつけた時、「・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・けれどもすっかり陥没し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思いがけない救いの手が出て来るかも知れないのだし、また福運という程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑えずに活きて行けるような新しい道が見出せないと・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・身を切るような風吹きて霙降る夜の、まだ宵ながら餅屋ではいつもよりも早く閉めて、幸衛門は酒一口飲めぬ身の慰藉なく堅い男ゆえ炬燵へ潜って寝そべるほどの楽もせず火鉢を控えて厳然と座り、煙草を吹かしながらしきりに首をひねるは句を案ずるなりけり。・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・樹を切るのは樵夫を頼んだ。山から海岸まで出すのは、お里が軽子で背負った。山出しを頼むと一束に五銭ずつ取られるからである。 お里は常からよく働く女だった。一年あまり清吉が病んで仕事が出来なかったが、彼女は家の事から、野良仕事、山の仕事、村・・・ 黒島伝治 「窃む女」
出典:青空文庫