・・・「庖丁はさびていても、手が切れるさかえ」老母はそう言って、刃にさわって見ていた。 やがて弁当の支度を母親に任かして、お絹は何かしら黒っぽい地味な単衣に、ごりごりした古風な厚ぼったい帯を締めはじめた。「ばかにまた地味づくりじゃない・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・しいが自転車には毫も詳しくないから、行こうと思う方へは行かないで曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう、ここにおいてか同じ所へ何返も出て来る、始めの内は何とかかんとかごまかしていたが、そうは持ち切れるものでない、今度は違った方へ行こう・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の端から端までかあんかあんと響く。「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺の鉦に似ている」「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ それでも、子供たちは、その小さな心臓がハチ切れるように、喘いでいるのにその屍体を起すことにかかっていた。若し、飯場の人たちが、親も子も帰らない事を気遣って、探しに来なかったならば、その親たちと同じ運命になるのであったほど、執拗に首を擡・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・かまいたちで切れるさ。」「何して切れる。」一郎はたずねました。「それはね、すりむいたとこから、もう血がでるばかりにでもなっているだろう。それを空気が押して押さえてあるんだ。ところがかまいたちのまん中では、わり合空気が押さないだろう。・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・一郎は息も切れるように叫びながら丸太棒をもとのようにしました。 四人は走って行って急いで丸太をくぐって外へ出ますと、二匹の馬はもう走るでもなく、どての外に立って草を口で引っぱって抜くようにしています。「そろそろど押えろよ。そろそろど・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ある何人かの悧巧な女が、その男のひとの受け切れる範囲での真率さで、わかる範囲の心持を吐露したとしても、それは全部でない。女の真情は現代に生きて、綺麗ごとですんではいないのだから。 生活の環がひろがり高まるにつれて女の心も男同様綺麗ごとに・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・ 黙って衝っ伏して聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭を擡げた。みはった目は異様に赫いている。そして一声「檀那、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、文吉は大凡こんなことを言った。この度の奉公は当前の奉公ではな・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・句会に興味のなさそうなその兄は、間もなく、汽車の時間が切れるからと挨拶をして、誰より先に出ていった。「橙青き丘の別れや葛の花」 梶はすぐ初めの一句を手帖に書きつけた。蝉の声はまだ降るようであった。ふと梶は、すべてを疑うなら、この栖方・・・ 横光利一 「微笑」
・・・真に所有の要求に燃えている者に、どうしてそれが不可能だと言い切れるだろう。自分にそれほどの力がない、とつぶやく心持ちにはなることもあるが、しかしそれは自己を嘲る根拠にはなっても、他人を嘲る根拠にはなり得ない。まさしく彼は自分の浅い生ぬるい経・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫